「Hush!」の余韻

2004年7月14日 映画
昨晩観た「Hush!」の余韻が冷めやらぬままに1日が過ぎた。
秋野暢子演じる容子の姿がまぶたに焼き付いて離れない。
女盛りの色気を発する汗ばんだ背中。
それがほったらかしにされている怒りと悲しみ。
夫(結婚)に対する期待を全てあきらめきった目、表情。

彼女は「べっきー」である。
年頃になったら結婚するべき
結婚したら子供を生むべき
子供を生むなら跡継ぎになる男を産むべき・・・
自分の中からの意志や希望より、そういう外からの決め事に従う生き方が正しいと信じている人。

30を過ぎるまで結婚できず、結婚してもなかなか子供に恵まれず、やっと生まれたのが女の子だった、という容子にとっては、それらのどれもが人生の喜びになり得なかった。
だから勝裕に対する「ホントに好きな人と一緒にならなあかんよ」という言葉は、勝裕に対するものではなくて、それができなかった自分への、それを許さなかった世間への、反語でしかない。

この映画に出てくる女たちは朝子を除いてみんな「べっきー」だ。「こうすべきだ」と思い、それができなくて苦しんでいる。

それに対して「べっきー」から解放されている人々の幸せそうなことといったら!
世間との折り合いに苦しんでいるようで、折り合いをつけて生きている人たちよりずっと軽々と生きているように見える。

BLが「女の子のファンタジー」と言われるように、この映画も一種のファンタジーだ。
現実にはありえない形をとりながら、本当の幸せとはこういうものだよ、と教えてくれる。
現実にはいろんな枠から外れて生きることは簡単なことではないんだけど、ふとそれができそうな気にさせてくれて、幸せな気持ちをくれる。

私もかつてはべっきーだった。若い頃は、そりゃあバリバリだった。だから、3人に対していきり立つ容子の気持ちはとてもよくわかる。
彼女は夫の「死」で、おそらく少し解放されたのだと思う。
私は自分から離れることで、少し解放された。「べっきー」のままでいた方が、結婚生活の見かけは理路整然としていたかもしれず、夫にとってはその方が都合が良かったかもしれないが、私の気持ちは死んだも同然だったろう。

今は、生活の見かけは雑然としているけれど、あの頃よりは生きていることが楽しい。
でも、夫との「結婚生活」を再開させたことで「べっきー」の影に脅かされているところはある。

女なんだから〜べき
主婦なんだから〜べき
妻なんだから〜べき
母なんだから〜べき

うるさいっっ!!
私は女でも主婦でも妻でも母でもない、
その前にまず、人間なんだぁ〜〜〜

おそるべし「べっきー」。
負けないようにがんばらねば。

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