歌舞伎座7月興行!!!
2004年7月18日 演劇
考えてみれば結婚してからここ(歌舞伎座)に来るのは初めてじゃない?
しかも過去の上演記録を見れば、おそらく最後にここに来たのもやはり、玉三郎の「桜姫」を観に来た時だ。
その間19年。19年だって。生まれた子供が成人するほどの年月。
いつものミーハー心でうきうき待っていた歌舞伎座観劇だったが、いざ現地についてみるとこういういろんな想いがどーーーっと来て、胸がいっぱいになってしまったのだった。
ああ、緞帳も変わってるなあ〜。
ロビーにもいろんなお店が増えて、なんかすごく賑やかになってる。
そして幕が開いてもっと時代の変遷を思い知らされることになった。
最初は「修善寺物語」
面打ちの夜叉王の職人魂を描く物語だ。
夜叉王の娘たち、家庭的で穏やかな妹と出世欲に満ちた気の強い姉。
その姉がひょんなことから源頼家に見初められて家を出て行くが、暗殺されようとする頼家の身替りになって切られ、瀕死の状態で実家に戻ってくる。
そこで夜叉王は言うのだ。「娘、顔を上げい」
リアルな面を作るために瀕死の女の表情を知る良い機会だから、
「苦痛をこらえてしばし待て」といって紙と筆を取りに行き、瀕死の娘の表情を写し取ろうとする。
ここで・・・。
客席がどっと笑ったのだ。
後ろから「ひどいお父さんねえ」という声も聞こえる。
そりゃ、そうだけど・・・確かにひどい父親だけど、でも・・・。
ここで観るべきところはそういうところじゃないんじゃない?
お客を「う〜む、なんという職人魂・・」と唸らせることができずに「ひどいわねえ」と笑わせてしまう役者の非力、というのもあるのかもしれないが・・・。
歌舞伎が前もって勉強しておかなければわからないようなものであっては、基本的にはいけないとは思うが、しかし歌舞伎を観るにあたっての最低限の感性というものは、なくてはいけないんじゃないか、と思ってしまうのだが・・・。
どうなんだろう、あそこで笑うって、今は普通なんだろうか。
私の頭が固いんだろうか。
さて次はいよいよ「桜姫東文章」
19年前と少しもかわらぬ美しさの玉三郎サマだが、その芝居はずっと進化しているように見えた。
発端で登場する稚児・白菊丸。恋焦がれる僧・清玄を見上げるその目には10代の、まだ子供の時代側にいる人のひたむきさと純粋さがあって息を呑んだ。
稚児ヶ淵の崖の上で一瞬二人がひしと抱き合う姿の甘美なことといったら!
ただでさえ男×男に弱い私は、その後に展開された濡れ場より、このシーンの方が思い出してドキドキしてしまうのだ。
ここで思い切りよく海に飛び込んだ白菊丸に対して、清玄は飛び込み損ねて死に損なってしまう。
崖の上でおろおろと右往左往する清玄に姿に、客席がまたどっと笑う。
その後人魂が上がって、白菊丸の生まれ変わりを象徴する(作り物の棒の付いた)白鷺がバサバサっと飛んでいくのに、また笑う。
だから、なんで笑うかなあ。
そこで笑うってことは、鏡獅子で獅子の周りを飛びかう蝶々にも笑うの?
そこに、今のように何でもできちゃう時代じゃなかった頃の匂いを感じるとか、そういうことはないの?
さて、それより17年後となり、実は白菊丸の生まれ変わりの桜姫17歳が登場。
わが身の不具を嘆いて出家しようとしているこの姫は、どこからどう見ても「何にも知らないお姫様」なのだが、実は以前、忍び込んできた賊に強姦されそいつの子供を産み落としている。
しかもそのときの顔もわからない賊を忘れられずに、同じ刺青まで腕に入れてひそかに想っている。
その賊=釣鐘権助と再会してからの桜姫の打って変わったなまめかしさ。
流し目、しな、本当にほほを染めているようにすら見える、嬉しさと恥ずかしさの入り混じった表情。
しかも決して下品にならず、どこまでいっても17歳の娘っこなのだ。
この後、御簾が下りるまではR指定。
すげー。こんなのが江戸時代からあるなんて。
幕が切れる寸前、桜姫が身も心も権助にゆだねて抱き寄せられるあの姿、私は同じ女として、感覚的にものすごくよくわかるのだが、男性の玉三郎がどうやってあの、ああいうときのあの感じ(*^_^*)というのを理解するのかと思う。
「あぁ、もう、この人は本当の天才だぁ。この人と同じ時代に生まれて本当に良かったよう(感涙)」
そしてなにより忘れてはならないのが、市川段治郎という役者。
猿之助劇団の若手ホープで、スチールなど見て「かっこいい人が出てきたなあ」とは思っていたが、これほどとは。
今回、清玄と権助の2役だが、とにかく権助が似合う。
めっちゃ色っぽい、かっこいい。「色悪」という言葉がここまで似合う役者は、私にとっては初めて。
品の悪さ、というのがいい具合に出ていて、それがますます権助という人物を魅力的にしている。
その権助が、今回観た昼の部では1場しか出てこなかったのだ(悔し涙)
うぁ〜、夜の部も観たいよ〜
でももう、もう一度東京まで行く時間もお金もない。
テレビでやってくれないかなあ〜、もしくは大阪か京都で。
はぁ〜
最後は踊り「三社祭」
ぬいぐるみのような体型のお二人(市川右近・市川猿弥)が小気味良く踊ってくれました。
ここでも「歌舞伎ってホントに面白い」と思うのが、二人の漁師に「善玉」と「悪玉」が取り付いて、それぞれの踊りをする、という舞踊なのだが、「善」と「悪」という文字が書かれた面をつけて踊るのだ。
顔一面が「善」と「悪」になるの。着物に書くとか、おでこにかぶるとかじゃないの。
誰が考え付くんだろう、こういうの。
こういう発想が面白くて、ますます歌舞伎が好きだったりするのだ。
あー、とにかく堪能した。
実は10月に大阪で、今勘九郎さんがNYでやってる「夏祭浪花鑑」の凱旋公演があったりする。
この公演、昼の部は息子二人(七之助・勘太郎)の「野崎村」もあって、もう絶対に見逃すまいと思っている。
「夏祭」は奮発して子供たちにも見せようと思う。
芸というのは形のない一瞬のものだからこそ、どんなものより価値があると思うのだ。
しかも過去の上演記録を見れば、おそらく最後にここに来たのもやはり、玉三郎の「桜姫」を観に来た時だ。
その間19年。19年だって。生まれた子供が成人するほどの年月。
いつものミーハー心でうきうき待っていた歌舞伎座観劇だったが、いざ現地についてみるとこういういろんな想いがどーーーっと来て、胸がいっぱいになってしまったのだった。
ああ、緞帳も変わってるなあ〜。
ロビーにもいろんなお店が増えて、なんかすごく賑やかになってる。
そして幕が開いてもっと時代の変遷を思い知らされることになった。
最初は「修善寺物語」
面打ちの夜叉王の職人魂を描く物語だ。
夜叉王の娘たち、家庭的で穏やかな妹と出世欲に満ちた気の強い姉。
その姉がひょんなことから源頼家に見初められて家を出て行くが、暗殺されようとする頼家の身替りになって切られ、瀕死の状態で実家に戻ってくる。
そこで夜叉王は言うのだ。「娘、顔を上げい」
リアルな面を作るために瀕死の女の表情を知る良い機会だから、
「苦痛をこらえてしばし待て」といって紙と筆を取りに行き、瀕死の娘の表情を写し取ろうとする。
ここで・・・。
客席がどっと笑ったのだ。
後ろから「ひどいお父さんねえ」という声も聞こえる。
そりゃ、そうだけど・・・確かにひどい父親だけど、でも・・・。
ここで観るべきところはそういうところじゃないんじゃない?
お客を「う〜む、なんという職人魂・・」と唸らせることができずに「ひどいわねえ」と笑わせてしまう役者の非力、というのもあるのかもしれないが・・・。
歌舞伎が前もって勉強しておかなければわからないようなものであっては、基本的にはいけないとは思うが、しかし歌舞伎を観るにあたっての最低限の感性というものは、なくてはいけないんじゃないか、と思ってしまうのだが・・・。
どうなんだろう、あそこで笑うって、今は普通なんだろうか。
私の頭が固いんだろうか。
さて次はいよいよ「桜姫東文章」
19年前と少しもかわらぬ美しさの玉三郎サマだが、その芝居はずっと進化しているように見えた。
発端で登場する稚児・白菊丸。恋焦がれる僧・清玄を見上げるその目には10代の、まだ子供の時代側にいる人のひたむきさと純粋さがあって息を呑んだ。
稚児ヶ淵の崖の上で一瞬二人がひしと抱き合う姿の甘美なことといったら!
ただでさえ男×男に弱い私は、その後に展開された濡れ場より、このシーンの方が思い出してドキドキしてしまうのだ。
ここで思い切りよく海に飛び込んだ白菊丸に対して、清玄は飛び込み損ねて死に損なってしまう。
崖の上でおろおろと右往左往する清玄に姿に、客席がまたどっと笑う。
その後人魂が上がって、白菊丸の生まれ変わりを象徴する(作り物の棒の付いた)白鷺がバサバサっと飛んでいくのに、また笑う。
だから、なんで笑うかなあ。
そこで笑うってことは、鏡獅子で獅子の周りを飛びかう蝶々にも笑うの?
そこに、今のように何でもできちゃう時代じゃなかった頃の匂いを感じるとか、そういうことはないの?
さて、それより17年後となり、実は白菊丸の生まれ変わりの桜姫17歳が登場。
わが身の不具を嘆いて出家しようとしているこの姫は、どこからどう見ても「何にも知らないお姫様」なのだが、実は以前、忍び込んできた賊に強姦されそいつの子供を産み落としている。
しかもそのときの顔もわからない賊を忘れられずに、同じ刺青まで腕に入れてひそかに想っている。
その賊=釣鐘権助と再会してからの桜姫の打って変わったなまめかしさ。
流し目、しな、本当にほほを染めているようにすら見える、嬉しさと恥ずかしさの入り混じった表情。
しかも決して下品にならず、どこまでいっても17歳の娘っこなのだ。
この後、御簾が下りるまではR指定。
すげー。こんなのが江戸時代からあるなんて。
幕が切れる寸前、桜姫が身も心も権助にゆだねて抱き寄せられるあの姿、私は同じ女として、感覚的にものすごくよくわかるのだが、男性の玉三郎がどうやってあの、ああいうときのあの感じ(*^_^*)というのを理解するのかと思う。
「あぁ、もう、この人は本当の天才だぁ。この人と同じ時代に生まれて本当に良かったよう(感涙)」
そしてなにより忘れてはならないのが、市川段治郎という役者。
猿之助劇団の若手ホープで、スチールなど見て「かっこいい人が出てきたなあ」とは思っていたが、これほどとは。
今回、清玄と権助の2役だが、とにかく権助が似合う。
めっちゃ色っぽい、かっこいい。「色悪」という言葉がここまで似合う役者は、私にとっては初めて。
品の悪さ、というのがいい具合に出ていて、それがますます権助という人物を魅力的にしている。
その権助が、今回観た昼の部では1場しか出てこなかったのだ(悔し涙)
うぁ〜、夜の部も観たいよ〜
でももう、もう一度東京まで行く時間もお金もない。
テレビでやってくれないかなあ〜、もしくは大阪か京都で。
はぁ〜
最後は踊り「三社祭」
ぬいぐるみのような体型のお二人(市川右近・市川猿弥)が小気味良く踊ってくれました。
ここでも「歌舞伎ってホントに面白い」と思うのが、二人の漁師に「善玉」と「悪玉」が取り付いて、それぞれの踊りをする、という舞踊なのだが、「善」と「悪」という文字が書かれた面をつけて踊るのだ。
顔一面が「善」と「悪」になるの。着物に書くとか、おでこにかぶるとかじゃないの。
誰が考え付くんだろう、こういうの。
こういう発想が面白くて、ますます歌舞伎が好きだったりするのだ。
あー、とにかく堪能した。
実は10月に大阪で、今勘九郎さんがNYでやってる「夏祭浪花鑑」の凱旋公演があったりする。
この公演、昼の部は息子二人(七之助・勘太郎)の「野崎村」もあって、もう絶対に見逃すまいと思っている。
「夏祭」は奮発して子供たちにも見せようと思う。
芸というのは形のない一瞬のものだからこそ、どんなものより価値があると思うのだ。
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