悲しく辛いこと
2004年9月16日ここ数日の新聞は読むのが辛い。
栃木の事件。
なぜ矛先が子供に向いてしまうのか。
今回は特にその思いが強い。
数年前にもあった。
文京区音羽の事件。
憎しみの対象は母親であったのに、命を奪われたのはその娘さんだった。
大人同士の確執に、なぜ子供が巻き込まれなくちゃならないのか。
相手にダメージを与える道具に、なぜ子供を使ってしまうのか。
今回は虐待もあった。
周りのたくさんの人が知っていたのに、誰も救えなかった。
もし自分が明らかに虐待を受けているだろう子供を見かけたら、と考えると、わかっていても簡単なことではないことは理解できる。
それでも。
ガソリンスタンドに7時間も居座って、子供たちをトイレに連れ込んで中で殴っていたという。
スタンドの店員はそこまでわかっていて、なぜ見過ごしたのか。
こんな風にして子供が命を落とすたびに思う。
これは直接手を下した犯人だけの罪ではない。
子供たちを取り巻く社会全体の罪だ。大人たち全員の罪だ。
今の時点で大人である人たちも、かつては子供だった。
思うことの第1。
彼らは自分が子供だった頃のことを忘れてしまうのだろうか、ということ。
大人からどんなことをされて嫌だったか。どんなことをされたら嬉しかったか。どんなことをして欲しかったか。どんなときに嬉しくて、どんなときに悲しくて、大人というものをどう思い、自分はどんな大人になりたいと思ったか。
思うことの第2。
今現在の大人たちを育てた大人たちのこと。
その大人たちにもまた、罪があるということ。
次世代の子供たちの中に、大人としての自覚を育てられなかったという罪。
そして、そうやって遡っていくと、いったいどこまでいくのだろうか、ということ。
この社会はいったい、どこらへんまでが健全で正常だったのだろうか。どのあたりからおかしくなってきたのだろうか。
そんなさまざま思いとリンクするように、もう一つ、見過ごせない出来事があった。
大阪池田小学校事件の宅間死刑囚の死刑執行。
この事件もまた、子供たちが1人の大人の身勝手な感情の犠牲になった許しがたく忘れがたい事件だ。
死刑が今現在の最重刑であるならばそれが適応されて当然の罪を彼は犯した。
だから死刑判決が出て、それが執行されたことに対してどうこう、ということではない。
私がこのニュースを見聞きするたびに辛かったのは、被害者の子供たちやそのご家族のこととは別にもう一つ、加害者の宅間の人間性だ。
新聞を読んで感じたのは、「誰も彼をきちんと育ててやらなかった」ということだ。
そして彼自身がそのことをよくわかっていて、わかっていても自分でどうしたらいいかがわからず、苦しんでいたということ。
新聞で読む彼の言葉は、自分を否定するものばかりだった。
それは、彼が「自分のことをよく知っている」人間だとかそういう問題ではない。
それは、彼を自分のことをそんな風に思う人間に育ててしまった周りの大人たちの罪だ。
そして彼は「謝る」ということを知らない人だったという。
「嫌なことをされたときに謝ってもらったり、いけないことをしたときに謝って許してもらうという経験がない」と。
だから、悪いことをしたのはわかっていても「謝る」という行動に結びつかなかったのだ、と。
普通に考えたら、ことさら意識的に教えなくても身に付くことなのかもしれない。
けれど、たとえば宅間という人が、生まれつき普通の人より少し欠落した部分のある人だったとしたら。少し意識して常識を教えなければならない人だったとしたら。
それは、その欠落が罪なのではなく、欠落を持って生まれた宅間自身の罪でもなく、そういう人を正しく育てられなかった周りの大人たちの罪だ。
しかし大人たちは最後の最後まで彼を「きちんと育てる」ことなく終わらせてしまった。
罪を悔いて、謝る、という人として最も大切なことを、最後の最後まで誰も彼に教えることなく終わってしまった。
罪を悔いて、謝罪し、「もう一度生きたい」と思ってこその死刑なのではないだろうか。
そこまでいって初めて、命を奪われた子供たちの無念が加害者に伝わり、そこでやっと被害者にとって多少なりとも救いが生まれるのではなかったのだろうか。
宅間を取り巻く人々は、最後の最後まで彼を「人として育てる」ことを放棄してしまった。
彼は罪の深さを知ることなく「解放」されてしまった。
そんな「死刑」になんの意味があるだろう。
虚しい。
そして、みんながかわいそうだ。
犠牲になった子供たちも、残された家族たちも、そして宅間本人も。
司法を預かる大人たちの怠慢だ。
誰よりも賢くあらねばならないはずの人たちなのに。
栃木の事件。
なぜ矛先が子供に向いてしまうのか。
今回は特にその思いが強い。
数年前にもあった。
文京区音羽の事件。
憎しみの対象は母親であったのに、命を奪われたのはその娘さんだった。
大人同士の確執に、なぜ子供が巻き込まれなくちゃならないのか。
相手にダメージを与える道具に、なぜ子供を使ってしまうのか。
今回は虐待もあった。
周りのたくさんの人が知っていたのに、誰も救えなかった。
もし自分が明らかに虐待を受けているだろう子供を見かけたら、と考えると、わかっていても簡単なことではないことは理解できる。
それでも。
ガソリンスタンドに7時間も居座って、子供たちをトイレに連れ込んで中で殴っていたという。
スタンドの店員はそこまでわかっていて、なぜ見過ごしたのか。
こんな風にして子供が命を落とすたびに思う。
これは直接手を下した犯人だけの罪ではない。
子供たちを取り巻く社会全体の罪だ。大人たち全員の罪だ。
今の時点で大人である人たちも、かつては子供だった。
思うことの第1。
彼らは自分が子供だった頃のことを忘れてしまうのだろうか、ということ。
大人からどんなことをされて嫌だったか。どんなことをされたら嬉しかったか。どんなことをして欲しかったか。どんなときに嬉しくて、どんなときに悲しくて、大人というものをどう思い、自分はどんな大人になりたいと思ったか。
思うことの第2。
今現在の大人たちを育てた大人たちのこと。
その大人たちにもまた、罪があるということ。
次世代の子供たちの中に、大人としての自覚を育てられなかったという罪。
そして、そうやって遡っていくと、いったいどこまでいくのだろうか、ということ。
この社会はいったい、どこらへんまでが健全で正常だったのだろうか。どのあたりからおかしくなってきたのだろうか。
そんなさまざま思いとリンクするように、もう一つ、見過ごせない出来事があった。
大阪池田小学校事件の宅間死刑囚の死刑執行。
この事件もまた、子供たちが1人の大人の身勝手な感情の犠牲になった許しがたく忘れがたい事件だ。
死刑が今現在の最重刑であるならばそれが適応されて当然の罪を彼は犯した。
だから死刑判決が出て、それが執行されたことに対してどうこう、ということではない。
私がこのニュースを見聞きするたびに辛かったのは、被害者の子供たちやそのご家族のこととは別にもう一つ、加害者の宅間の人間性だ。
新聞を読んで感じたのは、「誰も彼をきちんと育ててやらなかった」ということだ。
そして彼自身がそのことをよくわかっていて、わかっていても自分でどうしたらいいかがわからず、苦しんでいたということ。
新聞で読む彼の言葉は、自分を否定するものばかりだった。
それは、彼が「自分のことをよく知っている」人間だとかそういう問題ではない。
それは、彼を自分のことをそんな風に思う人間に育ててしまった周りの大人たちの罪だ。
そして彼は「謝る」ということを知らない人だったという。
「嫌なことをされたときに謝ってもらったり、いけないことをしたときに謝って許してもらうという経験がない」と。
だから、悪いことをしたのはわかっていても「謝る」という行動に結びつかなかったのだ、と。
普通に考えたら、ことさら意識的に教えなくても身に付くことなのかもしれない。
けれど、たとえば宅間という人が、生まれつき普通の人より少し欠落した部分のある人だったとしたら。少し意識して常識を教えなければならない人だったとしたら。
それは、その欠落が罪なのではなく、欠落を持って生まれた宅間自身の罪でもなく、そういう人を正しく育てられなかった周りの大人たちの罪だ。
しかし大人たちは最後の最後まで彼を「きちんと育てる」ことなく終わらせてしまった。
罪を悔いて、謝る、という人として最も大切なことを、最後の最後まで誰も彼に教えることなく終わってしまった。
罪を悔いて、謝罪し、「もう一度生きたい」と思ってこその死刑なのではないだろうか。
そこまでいって初めて、命を奪われた子供たちの無念が加害者に伝わり、そこでやっと被害者にとって多少なりとも救いが生まれるのではなかったのだろうか。
宅間を取り巻く人々は、最後の最後まで彼を「人として育てる」ことを放棄してしまった。
彼は罪の深さを知ることなく「解放」されてしまった。
そんな「死刑」になんの意味があるだろう。
虚しい。
そして、みんながかわいそうだ。
犠牲になった子供たちも、残された家族たちも、そして宅間本人も。
司法を預かる大人たちの怠慢だ。
誰よりも賢くあらねばならないはずの人たちなのに。
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