へー、七之助君の写真集なんて出てるんだー。
ちょっと立ち読みしてみたいかも。

話題の「夏祭浪花鑑」、やっと観てきました。

ふーむ、なるほどー。

大阪松竹座はごく普通の劇場なので、舞台奥を開けることは不可能です。そこをどうするのか、苦心の跡が見られました。
でも残念ながら、初演のシアターコクーン、もしくは先日のニューヨーク公演のような醍醐味は無かったのではないかなー。仕方のないことなんですけどね。

しかしながらお客さんたちの盛り上がりはすごいものがあり、幕が下りた後は当然のようにスタンディングオベイションがあり、帰りにとあるおじいちゃんが「いやー、楽しかったねぇ〜、これをあと3回も観られるかと思うとワクワクするねえ(まだあと3回観る予定があるらしい)」と頬を紅潮させていたのはとても印象に残りました。

言うまでも無くこの出し物の目玉は演出にあるわけで。
ポイントは、かねがね噂に聞いていたラストの幕切れの演出というよりは、舅殺しの場面における「光と影の使い方」の方だと思いました。

場内の「電気」を消して、ろうそくの灯りを使います。
その効果によって、写楽の役者絵や江戸時代の幽霊画が舞台上に再現されるのです。
光の中に浮かび上がる「影」というものが、人の気持ちをいかに刺激するものか、ということに改めて気づかされます。
「電気」というものの無かった江戸時代の舞台において、「黒子」という存在がどれほど有効な役割を担っていたか、ということも実感として伝わってきます。
そのように今回の串田演出は、20数年前の市川猿之助丈の歌舞伎に対する新演出とは対照的に、「基本に戻ることによって基本的な感動を呼び覚ます」というようなものでした。

ろうそくの灯りの中で展開する「舅殺し」の場面の、あの臨場感には、本当に鳥肌が立つような思いでした。
それは、現代の明るい電気の下で見せられる、「現実味の無い殺人現場」ではなく、「人を殺す」という行為がいかに忌まわしいものであるか、ということを実感させてくれるリアルなものだったのです。
団七がそのつもりもなく舅を斬ってしまい、やむを得ず気力を振り絞って沼に押し沈める、と、今度は場内の電気が全て点いて明るい祭りの喧騒の場面になります。
その明るさが、団七の心の暗さをますます際立たせるのです。

今回、おそらくラストの演出にどうにもならない限界があったためだと思うのですが、芝居の流れの頂点がこの1幕の切れに集中してしまい、私にとっては全体的にはもうひとつ物足りない結果となりました。

元来歌舞伎の脚本というのは枝葉末節が非常に多いものです。
それが歌舞伎というものを難解にしている一因ではあるのですが、今回はそれが、ほとんど「あらすじ」と言ってもいいくらいにまで削ぎ落とされていて、物語を味わう「芝居」としての面白みが残念ながら失われていたように感じました。

ただ、余分なものがそこまで極端に削られていたからこそ、外国人には「歌舞伎」というものの魅力が非常にわかりやすく伝わったと思います。
たしかに基本はこれだ、というものでしたから。

レビューに出した七之助くん、大変魅力的な琴浦でした。
べたべたとした女っぽさの無い、ちょっと気の強いしゃきっとした傾城琴浦、これが役作りなのか現代っ子が演るとこうなるのかはわかりませんが、とてもよかったです。

来週は中村兄弟の「野崎村」です。
楽しみだ〜♪

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