大阪・梅田芸術劇場で上演中のミュージカル「MOZART!」を、昼夜連続で観てきた♪
本日のキャストは昼の部が中川くん、夜の部が井上くん、男爵夫人は元・宝塚男役タータンこと香寿たつきさん。
そして、影の主役と言ってもいい、モーツァルトの子供姿・アマデを演じたのが、昼の部・弱冠小学校3年生の黒谷ともよちゃん、夜の部・小6の伊藤渚ちゃん。
見ての通り、宝塚で大ヒットしその後東宝の舞台でも上演が続けられている「エリザベート」の製作陣による作品で、雰囲気(いろんな要素をひっくるめてとりあえずこの言葉で)はそっくり。
ただ、エリザほどの華やかさはなく、ストーリーも更に暗いけど。
この作品におけるモーツァルトは、有名な映画「アマデウス」で描かれているような「下品で世間知らずだけど天才」というものではない。
天才と言われる才能を持ちながら、そしてそれが自分のものでありながら自分の自由にできないモーツァルトのジレンマ、というようなものが描かれる。
でもこの問題は実は、天才が凡才であっても、「自分自身を自分の自由にできない」という点において、全ての人にとって人生を送る上でついて回る問題であろうと思われ、そういう意味で、私はこの作品を、終始非常に切なく悲しい思いを抱きながら観た。
昼夜とも観る、という贅沢な見方をしたのは、以前新聞評で、Wキャストの二人が余りにも違うモーツァルト像を作り上げている、と読んだことがあったからで。
ミュージカルで主役がWキャストというのは珍しくないことだし、人が違えばそれぞれの個性なりの違いは当然出てくる。
が、一つの作品上の同じ役をするに当たって、そこまで違う役作りが許される、ということも、余りないことだと思える。なぜならば、「役の解釈」というものは作品においては一つであろうと思われるから。
そんな興味を持って観た2回の舞台。
全く違うモーツァルトであったことは確かだ。
二人ともに共通して見えたものを言葉にすれば「純粋」。
が、その「純粋」の種類が違うと言うか・・・
井上モーツァルトはある意味図太さを感じる「イノセントな大人」であるのに対して、中川モーツァルトは非常にナイーブな「永遠の少年」とでも言おうか。
でもそれは、二人の意識的な役作り、というより、体型や声質、役者としてのキャリアから来るもの、のようにも思えた。
言い換えれば、中川くんの方が「決められたことをきっちりやっている」感じ、井上くんの方は「役の幅の中で遊ぶ余裕がある」感じ。
そして、それぞれの主役の芝居に合わせたように、周りの芝居も「枠内にきっちり」な感じと「はみ出す感じ」になったのは面白いことだった。
どちらがいいか、ということは、もう好みの問題だろう。
私は、夜の井上くんのモーツァルトが登場したときには「中川くんよりずっとうまい」と思ったし、全体的にテンションの高い舞台となっていて非常に楽しく観た。
が、感情的には中川モーツァルトの昼の部の方がより動かされた、というのが正直なところだ。
中川くんの芝居が、モーツァルトとして必要充分なものでありそれ以上ではなかったことが、脇のキャラクター−父親・レオポルドや姉のナンネル、妻のコンスタンツェ等々の感情をよりはっきりと浮き上がらせ、その結果ドラマとしての深みが出たのではないかと思う。
その他、印象に残った人について。
タータンの男爵夫人、ヴォルフガングの周囲でただ一人、優しさの感じられる人で、この人によってのみ心が和む。この人が素にもつ育ちの良さが、とてもよい形に出ていたと思う。歌も、昼の部は少し辛かったけど、夜はより丁寧に歌ってて◎だった。
大司教の山口祐一郎氏。歌は相変わらずイマイチだけど、さすがの存在感。役の大きさともあいまって、ものすごいカリスマ感。いやー、参りました。
レオポルドのいっちゃん。年取ったなあ。歌が・・・苦しくなった。でも、息子を思う父の心情−例えそれが間違った愛情であっても−は切なく伝わってきた。
最後に是非書いておかなければならないのが、モーツァルトの子供姿を演じる子役たちのこと。
もう、すばらしい、というより、すごい。
この“アマデ”という役は、モーツァルトの子供時代の姿をしているが、モーツァルトの才能を表す存在として登場する。
“アマデ”と“ヴォルフガング”(大人になったモーツァルトはこう呼ばれる)は、常に二人一組で登場し、ヴォルフガングは常にアマデと対峙している。
つまりアマデはヴォルフガングに常に「ボクをどうするの?この才能をお前はどうしてくれるの?」と迫っているわけで。
アマデにはセリフも歌もない。が、ただいるだけでいい役ではなく、それだけの芝居−大人になったヴォルフガングに常に問いかける芝居−を要求される。
それを、子役たちは大人以上にきっちり演る。もう、すごいの一言。昼の部の子は小3。子供には見えない、神にも見えるときのあるアマデだった。
それにしても久しぶりのミュージカル、堪能した。
エリザに比べればずっと地味で暗いけれど、心に深く残る作品だったと思う。
機会があったらまた観たい。
特に、久世星佳の男爵夫人、やはり元宝塚ファンとしては、観ておきたい。
●脚本・作詞 : ミヒャエル・クンツェ
●作曲 : シルヴェスター・リーヴァイ
●演出・訳詞 : 小池修一郎
●出 演 : モーツァルト…井上 芳雄/中川 晃教(ダブルキャスト)
コンスタンツェ…西田 ひかる
ナンネル・モーツァルト…高橋 由美子
ヴァルトシュテッテン男爵夫人…久世 星佳/香寿 たつき(ダブルキャスト)
コロレド大司教…山口 祐一郎
レオポルド・モーツァルト…市村 正親 他
天使の旋律に秘められた、人間モーツァルトの真実。
オーストリア、ザルツブルクに生まれた大作曲家ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756年〜91年)。「神童」の名を欲しいままにした天才作曲家は、その才能がゆえに自分を追い詰め、35歳の短い生涯を終えます。クンツェ=リーヴァイによる人々の心を魅了してやまない名曲は、天才の名声のもとで、真の人間的自由を求めて苦悩する人間モーツァルトの姿をドラマチックにあぶりだします。
― 梅田芸術劇場ホームページより引用
本日のキャストは昼の部が中川くん、夜の部が井上くん、男爵夫人は元・宝塚男役タータンこと香寿たつきさん。
そして、影の主役と言ってもいい、モーツァルトの子供姿・アマデを演じたのが、昼の部・弱冠小学校3年生の黒谷ともよちゃん、夜の部・小6の伊藤渚ちゃん。
見ての通り、宝塚で大ヒットしその後東宝の舞台でも上演が続けられている「エリザベート」の製作陣による作品で、雰囲気(いろんな要素をひっくるめてとりあえずこの言葉で)はそっくり。
ただ、エリザほどの華やかさはなく、ストーリーも更に暗いけど。
この作品におけるモーツァルトは、有名な映画「アマデウス」で描かれているような「下品で世間知らずだけど天才」というものではない。
天才と言われる才能を持ちながら、そしてそれが自分のものでありながら自分の自由にできないモーツァルトのジレンマ、というようなものが描かれる。
でもこの問題は実は、天才が凡才であっても、「自分自身を自分の自由にできない」という点において、全ての人にとって人生を送る上でついて回る問題であろうと思われ、そういう意味で、私はこの作品を、終始非常に切なく悲しい思いを抱きながら観た。
昼夜とも観る、という贅沢な見方をしたのは、以前新聞評で、Wキャストの二人が余りにも違うモーツァルト像を作り上げている、と読んだことがあったからで。
ミュージカルで主役がWキャストというのは珍しくないことだし、人が違えばそれぞれの個性なりの違いは当然出てくる。
が、一つの作品上の同じ役をするに当たって、そこまで違う役作りが許される、ということも、余りないことだと思える。なぜならば、「役の解釈」というものは作品においては一つであろうと思われるから。
そんな興味を持って観た2回の舞台。
全く違うモーツァルトであったことは確かだ。
二人ともに共通して見えたものを言葉にすれば「純粋」。
が、その「純粋」の種類が違うと言うか・・・
井上モーツァルトはある意味図太さを感じる「イノセントな大人」であるのに対して、中川モーツァルトは非常にナイーブな「永遠の少年」とでも言おうか。
でもそれは、二人の意識的な役作り、というより、体型や声質、役者としてのキャリアから来るもの、のようにも思えた。
言い換えれば、中川くんの方が「決められたことをきっちりやっている」感じ、井上くんの方は「役の幅の中で遊ぶ余裕がある」感じ。
そして、それぞれの主役の芝居に合わせたように、周りの芝居も「枠内にきっちり」な感じと「はみ出す感じ」になったのは面白いことだった。
どちらがいいか、ということは、もう好みの問題だろう。
私は、夜の井上くんのモーツァルトが登場したときには「中川くんよりずっとうまい」と思ったし、全体的にテンションの高い舞台となっていて非常に楽しく観た。
が、感情的には中川モーツァルトの昼の部の方がより動かされた、というのが正直なところだ。
中川くんの芝居が、モーツァルトとして必要充分なものでありそれ以上ではなかったことが、脇のキャラクター−父親・レオポルドや姉のナンネル、妻のコンスタンツェ等々の感情をよりはっきりと浮き上がらせ、その結果ドラマとしての深みが出たのではないかと思う。
その他、印象に残った人について。
タータンの男爵夫人、ヴォルフガングの周囲でただ一人、優しさの感じられる人で、この人によってのみ心が和む。この人が素にもつ育ちの良さが、とてもよい形に出ていたと思う。歌も、昼の部は少し辛かったけど、夜はより丁寧に歌ってて◎だった。
大司教の山口祐一郎氏。歌は相変わらずイマイチだけど、さすがの存在感。役の大きさともあいまって、ものすごいカリスマ感。いやー、参りました。
レオポルドのいっちゃん。年取ったなあ。歌が・・・苦しくなった。でも、息子を思う父の心情−例えそれが間違った愛情であっても−は切なく伝わってきた。
最後に是非書いておかなければならないのが、モーツァルトの子供姿を演じる子役たちのこと。
もう、すばらしい、というより、すごい。
この“アマデ”という役は、モーツァルトの子供時代の姿をしているが、モーツァルトの才能を表す存在として登場する。
“アマデ”と“ヴォルフガング”(大人になったモーツァルトはこう呼ばれる)は、常に二人一組で登場し、ヴォルフガングは常にアマデと対峙している。
つまりアマデはヴォルフガングに常に「ボクをどうするの?この才能をお前はどうしてくれるの?」と迫っているわけで。
アマデにはセリフも歌もない。が、ただいるだけでいい役ではなく、それだけの芝居−大人になったヴォルフガングに常に問いかける芝居−を要求される。
それを、子役たちは大人以上にきっちり演る。もう、すごいの一言。昼の部の子は小3。子供には見えない、神にも見えるときのあるアマデだった。
それにしても久しぶりのミュージカル、堪能した。
エリザに比べればずっと地味で暗いけれど、心に深く残る作品だったと思う。
機会があったらまた観たい。
特に、久世星佳の男爵夫人、やはり元宝塚ファンとしては、観ておきたい。
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