3月1日 朝日・大学パートナーズシンポジウム
「発達障害とともに-学びをどう支えるか」(プール学院大学、朝日新聞共催)
における、竹田契一氏(大阪教育大名誉教授)の基調講演要旨
日本ではこれまで、「全員右向け」と言ったら右を向かなければいけない集団指導の教育をしてきた。これが特別支援教育で変わった。というよりも、変わっていないといけない。特別支援教育は、基本的に集団の中で一人ひとりの子どもがどこでつまづいているのかを、担任がしっかりととらえ、その子に対応するプログラムを考えようという教育。日本の教育は、学級のなかでの指導が基本にあり、まずは担任のレベルアップが出発点にある。
 高等教育でうまくいっている例に、障害学生を受け入れるハワイの大学の「Kokuaプログラム」がある。苦手な語学を免除する制度や、大学側が友達を一人つくってくれるパートナーシステムの制度もある。2人一緒だといじめられにくくなるし、話し相手ができる。
 レスリーカレッジという大学では、発達障害専門コースがある。ここでは、自尊感情を高めるトレーニングをして社会に出す。ここの学生に共通しているのは中学、高校でいじめ抜かれて不登校になった経験があること。自尊感情をズタズタにされた経験のある子を受け入れる大学だ。そういう学校がアメリカにはある。
 今後必要なのは、発達障害の子らの心に寄り添った指導ができる場を多くつくることだ。「特性」を「障害」にしないように、 または障害があっても負担を軽くするにはどうすればいいかを考える必要がある。


昨日の朝日新聞関西版に載っていたものです。

「担任のレベルアップが出発点」とは、よくぞ言ってくれた、という感じ。
ただ、今教師をやってる人を一律に底上げしようというのは難しいだろうと思う。
もちろん教師として、発達障害に対する理解と認識は一律に必要だけど、指導力という観点から考えたら、専門の教師の養成を考えるべきだと思う。

また、教育を受ける子供の側を考えた時、健常児と障害児と発達障害児は1から10まで縦割りに区別されるべきではなく、普段は一緒にいながら、必要に応じて教育の場を分けるというやり方でないと、根本的な意識改革は難しいと思う。

だからこの問題に関しては、教える側、教わる側、双方に対して同時進行での改革、改善を進めていかないと意味がないと思うんだけど、社会の動きは一向にそんなふうにはならないのが不思議でしょうがない。
大学の教師養成コースにしても、障害児教育専門教師の育成コースって特にないよね?あってもいいと思うけど。

私の思い描く理想は、通常は、みんな一緒にクラス分けされて、1クラスに2人~3人の担任が付く(健常児担当、障害児担当、発達障害児担当)。教科によって、算数の時間は能力別にコース分け、音楽時間はみんなで一緒に、みたいな。
子供達も社会が学べるし。教師たちも一人で背負わなくて良い分、精神的にも楽なんじゃないかなあ。

「苦手科目の免除」というのは絶対に必要。それが行われない限り、たとえばLD児などが、その子の正当な実力に応じた大学に進むこと、とかに道は拓けないと思う。それができるようになれば、その先の就労の問題もずいぶん違ってくると思う。
「苦手」という表現をするからわかりにくくなる。それこそが発達障害児の「障害」たる所以の部分なんだから、足の不自由な子に皆と同じように走ることを要求しないのと同じことだということを分かってほしい。

障害があるからやらなくていい、できなくていい、というのが、「特性」を「障害」にしてしまうことだと思う。
障害があってもできることがあり、それは伸ばされるべきその子の特性である。
「障害」というレッテルによってそれが阻害されることはあってならないわけで。
どんな人も、何物にも邪魔されずにその人の特性を伸ばしていくことができれば、行き着くところ、障害があるとかないとかに関係なく、社会においてお互いに役に立てる-たすけ合える存在になれるはずで、それこそを「共生」っていうんじゃないかと思うんだけどな。

そうやって、社会のに認識が進んでいけば、いずれ「自尊感情をズタズタにされた子を受け入れる学校」というそのものも必要のない社会になるはず・・・・・と理想は膨らむけれども、実際の現実は、「特別支援教育」っていうのが導入されて、なにがどのくらい変ったんだろう。
うちの息子はちょっと間に合わなかったからなあ。間に合ってたら何か違っていたのかなあ。

コメント

モモ
2009年3月12日1:27

わが恩師の主張に共感してくださってありがとうございます。
はるか昔、竹田先生の下でしごかれたおかげで今の私があります。
私は最初から医療の世界を目指していたので教員免許すら持ってないのですが
研究室には小中学校の現役の教師が障害児教育の専門家を目指し、ほんとうに
一生懸命に勉強しておられました。それまで『教師なんて』と偏見の強かった私、

こんなに志の高い教師もいるんだ、と、目からウロコでした。
しかし彼ら、彼女らも、現場に戻ると普通学級の担任しかさせてもらえなかったり
専門性が必ずしも生かされなくてジレンマも多いようでした。
最近、確かつくばに専門コースができたとか、特別支援教育専門の非常勤教師の
募集がされていたりとか、少しずつ現場も変わってきているように感じます。
竹田先生のホームページ、良かったら見てあげてください。
http://www.schoolweb.ne.jp/weblog/index.php?id=2770001

もりのいずみ
2009年3月12日21:50

モモさんの先生なんですか!わ~、うらやましい・・・。
私はこれを読んだ時に涙が出そうでした。わかってくれてる人がいる、ということがこんなにも嬉しく心強いものだとは・・・。

勉強しておられる先生もたくさんいらっしゃるのは存じているのですが、そういう先生方を活かす行政というのか体制というのか、そういうのがいつまでたっても整わないじゃないですか・・・。それが歯がゆいです。

でも、少しずつでも変わってきているのですね、私も当事者(の親)として、何もせずに文句ばっかり言ってるのではいけないとは思うのですが・・・(-_-;)

竹田先生のHP、見せていただきます、ありがとうございます。

ままなっつ
2009年3月13日1:14

もりのいずみさん。なっつです。

特性を障害にしないという言葉、深く胸に刻みこみました。

障害という言葉自体がおかしいのですよね。
障害=普通の反対というように捉えると、
障害のある状態は無い状態には変えられないし、
いつまでもそこに進展は見られない。

生きて行く上での困難と言う風に考えを変えると、
困難を取り除く訓練なり、やり方が見えてくるように思えました。

私も子どもに関わる仕事のはしくれをやっているので、
この言葉を胸に頑張ろうと思います。

どうしても、現場では多数の動きが大事で、
そこからはみでる子に対する支援ができないのが現象です。
少しでも少しでも変化して欲しいと願っています。

もりのいずみ
2009年3月14日14:55

☆ままなっつさま

いい言葉ですよね~、私も胸の奥深くにまっすぐ染みとおってきたというような感覚でした。

特別支援教育というものが発表されたときに、発想はいいんだけどどうも具体的な部分で的が外れているような・・・という感じを受けていたので、その後もちょっと斜に構えた見方しかできなかったのですが、今回のこの講演要旨を読んで、ちゃんとわかってくれている専門家がいるんだっていうことが、すごくうれしくて心強く思えました。

一歩一歩進んでいくしかないんだ、ということは頭では理解できても、現実につらい思いをしている子供たちと親たちがいることを考えると、一歩一歩でいいから確実に進んでいって欲しいと思うのです。

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