インセプション・・・引きずってます(^_^;)
2010年8月22日 映画昨日、観てるときには、ディカプリオの抱える罪悪感の描写が結構重くて、面白い映画だけどリピートはないな、と思っていたのに・・・
一晩経ってみれば、早くももう一回観に行きたくなってしまっている私。
やっぱりこういう類のものにはめっぽう弱いようです。
昨日の日記を書いた後、「よし、解禁!」とばかりにネット上のレビューや評を読み漁って、感想が整理されたこともあります。
問題となっているラストシーンについては、私なりの結論も出て、それを確かめに行きたい、というような気持ちでもあります。
以下、ネタバレ感想。
ラストシーンに関しては、コブにとってはもう、現実だろうと夢だろうとどっちでも良くなっている、ということなんじゃないかと。とにかく子供に会えた、この手に抱けた、そのことだけがコブにとっての現実とでもいいましょうか・・・
そもそも、この「現実」という概念だって。
夢の中を4階層降りていくとそこは「虚無」。原語の「limbo」という言葉は厳密には日本語の「虚無=何もない世界」とは意味合いが違うようで、直訳的には「キリスト教の信仰のない人が死後に行く場所」みたいな感じらしい。この映画では、第3階層までは外からの刺激=キックで夢から覚醒できるんだけど、この「limbo」まで行くとそこで自殺するか殺されるかしないと、つまり「死なないと」抜け出せない世界、ということになってます。
ってことはさ。要するに「現実」とどう違うの?ってことじゃないですか。
現実だって、ここから抜け出そうとするなら死ぬしかないわけだし。
そうなると、第4階層と現実っていうのは繋がってると言うか、それこそだまし絵の階段みたいになってくるわけです。
コブは妻のモルが「自殺」したと思ってるけど、その「自殺」って行為も、その人がどの世界を「現実」と認識しているかによって、「自殺」なのか「今の世界から抜け出す手段」なのかが違ってくるわけで・・・。
コブはモルに「この世界は現実ではない」という意識をインセプション(植え付け)ちゃったわけだから、モルが現実に戻ろうと「自殺」するのはある意味正しい行動ということになる。
私は、ここのシーンがすごく引っかかったんです。「精神科の診断ではモルに異常が見つからなかった」っていうコブのセリフがあって。
本当は、コブの認識の方がおかしくなっていたんじゃないのかって。
そう考えると、もうどっちが「現実」か、なんてわからなくなってくるんですね。
でも、監督がこの映画で作りたかった世界は、そういう世界だったんじゃないかなと。「この世界は現実ではない」なんていう意識をインセプションされちゃったら、どんな世界で生きてても「ここは現実ではないんだ」「現実に戻らなきゃ」っていう堂々巡りの中に入り込んじゃうわけだから。
だから、コブが最後にたどりついた世界は、私としては、おそらくコマは倒れないんだろうなと思ったのですが、コブにとってはもうどっちでも良かったんだろうと。コマがどうなるか見届けずに子供たちを抱きしめに行ったというのは、どこであろうと子供のいる場所で生きていくんだと彼は決めたんだろうなと。
そうやって、その人が「ここで生きていくんだ」と心に決めた(=インセプションした)世界が、その人の現実なんだなって。
まあ、以上のようなところに落ち着いたのですが、そう考えるとこの映画、アクションがふんだんに取り入れられていたりするけれども、案外哲学的な映画なのかもしれないとも思いました。
一晩経ってみれば、早くももう一回観に行きたくなってしまっている私。
やっぱりこういう類のものにはめっぽう弱いようです。
昨日の日記を書いた後、「よし、解禁!」とばかりにネット上のレビューや評を読み漁って、感想が整理されたこともあります。
問題となっているラストシーンについては、私なりの結論も出て、それを確かめに行きたい、というような気持ちでもあります。
以下、ネタバレ感想。
ラストシーンに関しては、コブにとってはもう、現実だろうと夢だろうとどっちでも良くなっている、ということなんじゃないかと。とにかく子供に会えた、この手に抱けた、そのことだけがコブにとっての現実とでもいいましょうか・・・
そもそも、この「現実」という概念だって。
夢の中を4階層降りていくとそこは「虚無」。原語の「limbo」という言葉は厳密には日本語の「虚無=何もない世界」とは意味合いが違うようで、直訳的には「キリスト教の信仰のない人が死後に行く場所」みたいな感じらしい。この映画では、第3階層までは外からの刺激=キックで夢から覚醒できるんだけど、この「limbo」まで行くとそこで自殺するか殺されるかしないと、つまり「死なないと」抜け出せない世界、ということになってます。
ってことはさ。要するに「現実」とどう違うの?ってことじゃないですか。
現実だって、ここから抜け出そうとするなら死ぬしかないわけだし。
そうなると、第4階層と現実っていうのは繋がってると言うか、それこそだまし絵の階段みたいになってくるわけです。
コブは妻のモルが「自殺」したと思ってるけど、その「自殺」って行為も、その人がどの世界を「現実」と認識しているかによって、「自殺」なのか「今の世界から抜け出す手段」なのかが違ってくるわけで・・・。
コブはモルに「この世界は現実ではない」という意識をインセプション(植え付け)ちゃったわけだから、モルが現実に戻ろうと「自殺」するのはある意味正しい行動ということになる。
私は、ここのシーンがすごく引っかかったんです。「精神科の診断ではモルに異常が見つからなかった」っていうコブのセリフがあって。
本当は、コブの認識の方がおかしくなっていたんじゃないのかって。
そう考えると、もうどっちが「現実」か、なんてわからなくなってくるんですね。
でも、監督がこの映画で作りたかった世界は、そういう世界だったんじゃないかなと。「この世界は現実ではない」なんていう意識をインセプションされちゃったら、どんな世界で生きてても「ここは現実ではないんだ」「現実に戻らなきゃ」っていう堂々巡りの中に入り込んじゃうわけだから。
だから、コブが最後にたどりついた世界は、私としては、おそらくコマは倒れないんだろうなと思ったのですが、コブにとってはもうどっちでも良かったんだろうと。コマがどうなるか見届けずに子供たちを抱きしめに行ったというのは、どこであろうと子供のいる場所で生きていくんだと彼は決めたんだろうなと。
そうやって、その人が「ここで生きていくんだ」と心に決めた(=インセプションした)世界が、その人の現実なんだなって。
まあ、以上のようなところに落ち着いたのですが、そう考えるとこの映画、アクションがふんだんに取り入れられていたりするけれども、案外哲学的な映画なのかもしれないとも思いました。
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