せっかく歩けるようになったのに、病院でそれが裏目に出て同室の人にちょっかいを出し「1日2万円の個室行き」となっていた母ですが、弟が怒涛の施設探しをしてなんとか1週間で以前とは別の老健に移ることができました。

私もいろいろと調べたりして、最終的には民間の介護付き老人ホームに移るところまでメドが立ちました。

なんとかそこで落ち着いてもらいたい、と切に思います。

離れて暮らしている身としては、折々顔を見に行かねばなぁ、と思うものの、見たくもない顔をただ見に行くだけで新幹線代ウン万円かと思うとなかなか積極的な気持ちにはなれず。

弟がGWは自分もちょっと予定があるから来なくていいよというので内心で喜んでいたら、その次の週に外泊許可取ったから、そこで来てもらえる?と。

やっぱり男の子って優しいんだなあ、って決して嫌味ではありませんよ(^_^;)
本心で、そう思いました。

しかし、もう何か月も空き家状態の実家に、たった1泊とはいえ帰ってくるとなれば、主婦的感覚からは気になることばかり。
まずは掃除から始めないといけないよな、とか。
前回の外泊の時にそそうをしたお布団、外に向けては干せないから(取りこむ人がいない)家の中に干して帰って来て、それがどうなってるのかわからないし。
食事とかも、材料買って料理するとなれば、ごみも出るしあまりモノも出る、とか。

それで私はつい、難色を示してしまったのですが、弟は呑気なもので「心配するほど荒れてないよ、食事だって買ってきたものでいいし、ごみはオレが持って帰るから」

ま、まあ、それでなんとかなる・・・?
なんか、そんな状態の家に、たった1泊でも、帰ってくることには意味がある?・・・のでしょうね・・・きっと・・・

朝日新聞の土曜日版「be on Saturday」に載ってる「悩みのるつぼ」というのに、今回は上野千鶴子センセイが認知症を怖れる女性の悩みに答えておられるのですが、その中で
過去と未来がなくなって現在だけに生きる認知症高齢者は、現在だけがある子どもと同じ。子どもと違って高齢者を待ち受ける未来は死ですが、死を思わずに毎日を暮せるのは、人生の最期の日々に神が与えた恵み、とすら呼ぶ人もいます

と書かれています。
確かに母も一時期、自分の母親の年齢を超えた頃、死を意識して恐れているような様子を見せていた時がありました。
ところが最近は、なにかそういう「先行きを憂う」という感じが全くなくなって、いろんなことに対するこだわりも減ってきているように感じるのです。
あんなにも強固に「自分は他の人のように老いたりはしないんだ」と思っていたのに、もうすっかり「ただのおばあちゃん」になったなあ、と思います。

私はその、頑固に老いに抵抗していた頃を思えば、ただのおばあちゃんになれた今の方がよほど本人にとっては幸せのような気がしてしまうのですが・・・。

でもだからといって、「今更外泊なんて・・・」と思うのはこっちの勝手な「めんどくさがり」なんだろうなあ、と一応、反省して、来月にはまた顔を見に行って来ようと思います。

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