本「こんな夜更けにバナナかよ」
2019年2月26日 読書
映画って、壮大なあらすじになっている場合も多いし、濃縮されたエッセンスになっている場合もあるけどそうだとしても、何が濃縮されてるのかなーと思うと、ちょっと気軽に観に行く気にはなれなくて。
でも、「障がい者と健常者の関わり合い」という点においてはどうしても興味があったので、原作本を読みました。
著作者の渡辺氏はすごく考えながら悩みながらこの本を書いていて、それが自分の日ごろのモヤモヤとリンクして、答えにたどり着けるのだろうかという思いで貪るように読みました。
最終ページが近づくに従って自分の中で形になってきたのは、結局は人と人との関わり合いの問題であって、障がいの有る無しは関係ないなという思いで。
鹿野さんは自分ではできないことがいっぱいあって、人にやってもらえばできるならやってもらえばいいんだって割り切って、自立生活に踏み切ったのだと思うのです。そこに葛藤がなかったとは思わない。筋ジスと診断された小6の時から、養護学校や施設での生活や障がい者運動などを通じての経験からの考えや思いがあっただろうし、根っからの性格で「ワガママ」だったわけではなくて、それが健常者には「ワガママ」と解釈されることは覚悟の上で決めたことなんだろうなと。
彼を介助した人々はボランティアなので、嫌なら来なくてもいい人たちなわけです。でも、来る。そこには健常者側の考えや思いや覚悟があるわけで。
じゃあ、そういうのって、障がい者と健常者だから生じるものなのかっていうと、全然関係ないなと思う。
相手を理解して受け入れて付き合うってことは人間関係の基本だし、しんどかったら離脱する自由だってあるわけで、そういう意味で、自分の意志でシカノ邸にくるボランティアたち、気に入らなければ「お前、もう来なくていい!」とボランティアを拒否する鹿野さん、そしてそう言われてホントに来なくなるボラもいればそう言われても来続けるボラもいて、そういう人までは拒まない鹿野さん、という関係はすごくフラットなもので、ダイヤの原石のような状態であっても一つの理想形と言えるんじゃないかと思いました。
本では、ボランティアに頼る鹿野さんの、そしてボランティアに来る人たちの気持ちや考えを丹念に聞き取っています。
読む人はおそらく無意識に自分との接点を探しながら読むことになるのではないかな。自分だったらどう思うか、どう感じるか、どうするか・・・。それは、自分がボランティアに参加したとしたら、というのももちろんだけど、おそらく、自分が鹿野さんの側だったら、ということも考えると思うのです。
そういうことを自ずと考えさせてしまうのも、この本の意味のある所ではないでしょうか。
現実にはなかなか難しいからこその「理想」とも言えるけど、少なくとも、自分を隠さない、弱みがあってもそれを知られることを恥じない、そういう「自分を見せる、知ってもらう」ことを恐れないことだなと。
そういうのって、欧米人は結構できてるような感じがするし、逆に日本人は特に苦手だっていうのは、どういう文化的背景があるんだろうか・・・などとも思ったりして。
作者の渡辺さんがしめくくりに「自分がたどり着いたメッセージ」として記したことは、私も深く納得したことでしたが、この本を読んだ人それぞれの感じ方、考え方というのもあると思います。
だけど、障がい者、と、社会においては「便宜的に」分類されてしまうわけだけど、みんな一人ひとり、その状態が自分の「常態」=ノーマル、として「今を生きている」のだ、ということは、知っておいてほしいことだなと思います。
あなたにも、苦手な事、あるよね?あなたにも、出来ないこと、あるよね?そういうことと一緒なんだと。
そして、自分一人でできないことには他人の助けを借りていい、それもまた社会の「常態」であるべきだと思うのです。
でも、「障がい者と健常者の関わり合い」という点においてはどうしても興味があったので、原作本を読みました。
【目次】
プロローグ 今夜もシカノは眠れない
第一章 ワガママなのも私の生き方-この家は確かに「戦場」だった-
第二章 介助する学生たち-ボランティアには何があるのか①-
第三章 私の障害、私の利害-「自立生活」と「障がい者運動」-
第四章 鎖につながれた犬じゃない-呼吸器をつけた自立生活への挑戦-
第五章 人工呼吸器はわれなり-筋ジス医療と人工呼吸療法の最前線-
第六章 介助する女性たち-ボランティアには何があるのか②-
第七章 夜明け前の介助 人が人と生きることの喜びと悲しみ
エピローグ 燃え尽きたあとに残るもの
あとがき
文庫版あとがき
主要参考文献
著作者の渡辺氏はすごく考えながら悩みながらこの本を書いていて、それが自分の日ごろのモヤモヤとリンクして、答えにたどり着けるのだろうかという思いで貪るように読みました。
最終ページが近づくに従って自分の中で形になってきたのは、結局は人と人との関わり合いの問題であって、障がいの有る無しは関係ないなという思いで。
鹿野さんは自分ではできないことがいっぱいあって、人にやってもらえばできるならやってもらえばいいんだって割り切って、自立生活に踏み切ったのだと思うのです。そこに葛藤がなかったとは思わない。筋ジスと診断された小6の時から、養護学校や施設での生活や障がい者運動などを通じての経験からの考えや思いがあっただろうし、根っからの性格で「ワガママ」だったわけではなくて、それが健常者には「ワガママ」と解釈されることは覚悟の上で決めたことなんだろうなと。
彼を介助した人々はボランティアなので、嫌なら来なくてもいい人たちなわけです。でも、来る。そこには健常者側の考えや思いや覚悟があるわけで。
じゃあ、そういうのって、障がい者と健常者だから生じるものなのかっていうと、全然関係ないなと思う。
相手を理解して受け入れて付き合うってことは人間関係の基本だし、しんどかったら離脱する自由だってあるわけで、そういう意味で、自分の意志でシカノ邸にくるボランティアたち、気に入らなければ「お前、もう来なくていい!」とボランティアを拒否する鹿野さん、そしてそう言われてホントに来なくなるボラもいればそう言われても来続けるボラもいて、そういう人までは拒まない鹿野さん、という関係はすごくフラットなもので、ダイヤの原石のような状態であっても一つの理想形と言えるんじゃないかと思いました。
本では、ボランティアに頼る鹿野さんの、そしてボランティアに来る人たちの気持ちや考えを丹念に聞き取っています。
読む人はおそらく無意識に自分との接点を探しながら読むことになるのではないかな。自分だったらどう思うか、どう感じるか、どうするか・・・。それは、自分がボランティアに参加したとしたら、というのももちろんだけど、おそらく、自分が鹿野さんの側だったら、ということも考えると思うのです。
そういうことを自ずと考えさせてしまうのも、この本の意味のある所ではないでしょうか。
現実にはなかなか難しいからこその「理想」とも言えるけど、少なくとも、自分を隠さない、弱みがあってもそれを知られることを恥じない、そういう「自分を見せる、知ってもらう」ことを恐れないことだなと。
そういうのって、欧米人は結構できてるような感じがするし、逆に日本人は特に苦手だっていうのは、どういう文化的背景があるんだろうか・・・などとも思ったりして。
作者の渡辺さんがしめくくりに「自分がたどり着いたメッセージ」として記したことは、私も深く納得したことでしたが、この本を読んだ人それぞれの感じ方、考え方というのもあると思います。
だけど、障がい者、と、社会においては「便宜的に」分類されてしまうわけだけど、みんな一人ひとり、その状態が自分の「常態」=ノーマル、として「今を生きている」のだ、ということは、知っておいてほしいことだなと思います。
あなたにも、苦手な事、あるよね?あなたにも、出来ないこと、あるよね?そういうことと一緒なんだと。
そして、自分一人でできないことには他人の助けを借りていい、それもまた社会の「常態」であるべきだと思うのです。
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