なんとも辛い2冊
なんとも辛い2冊
少女マンガにどっぷり浸かって育った私が特に好きな漫画家さんと言えば、萩尾望都、竹宮恵子、山岸涼子、木原敏江、の4氏。他にも好きな漫画家さんはたくさんいるけれども、この4氏は別格です。

その中のお一人の萩尾望都氏が、マンガ家としての駆け出しだった大泉に住んでいた頃のことを書いたもの、ということで、「一度きりの大泉の話」というタイトルは「こんな若い頃のお話なんて一回きりよ、うふふ」的な意味だろうと勝手に思って、軽い気持ちで読み始めたのでしたが。

購入して見ると、帯に書かれている紹介文の雰囲気が、なんだか不穏・・・?
そして、前書き2ページ読んだところで、これは、このまま先に進んでもいいんだろうか・・・?と怯んでしまいました。

読み終えた今となっては、軽々しく感想を書くことは躊躇ってしまう心境です。

読み終えて、とりあえず竹宮恵子氏の著書「少年の名はジルベール」を探しに書店に走りました。
通販で注文して届くのを待つ余裕もなかったし、電子書籍ではなく紙の本で落ち着いて読みたかったのです。
幸い、すぐに見つかり購入、3時間ほどで読了しました。

5年前に竹宮氏が「少年の名はジルベール」という、こちらも大泉時代を中心に書いた自伝を出しました。
この本が出たために、何も知らない出版関係などの人たちから萩尾氏に「大泉時代を語って欲しい」「竹宮氏と対談してほしい」というオファーが殺到するようになりました。
萩尾氏は今までも何も語って来てないので、それはそれで仕方のないことではあるけれど、断っても断っても、何も知らない人たちからは繰り返しオファーが来る。だんだん「なんで受けないんだ、受けるべきだ」という空気になってくる。
けれど、なんとしても受けられない。
その「お断り」のために、「一度きり」書いた。

これはなんというか・・・
こういうことは、人間関係の中で、ある意味「よくあること」とも言えると思うのです。
萩尾氏は、大泉時代に深く傷つくことがあり、その後これ以上傷つかないように細心の注意を払って生きてきた。
何物でもない一般人であれば、それで済んだ話だったかもしれないけど、萩尾氏は今や、少女漫画界の巨匠となってしまったがために、「黙って逃げ切る」ことができずに、その傷を世間に曝すしかなかった。

萩尾氏の「一度きりの大泉の話」は、そんな本です。
300ページ超ある分厚い本の、最後の方はもうほとんど悲鳴のようです。
「これ以上、私の傷に触らないで!」という。

「少年の名は・・・」では、萩尾氏と竹宮氏と、元々は萩尾氏の友人で後に竹宮氏のブレーンとなった増山法恵氏と3人で共同生活を送っていたいわゆる「大泉サロン」は、自分の萩尾氏への嫉妬から解散に至ったと告白している本です。
ただ、こちらはあくまでも自分自身を省みるものという印象で、今に至るまで癒えない傷を抱えているようには感じられませんでした。

「一度きりの・・・」を読んだ時の「とんでもないものを読んでしまった」という衝撃もかなりなものでしたが、その後「少年の名は・・・」を読んで、その温度差にあらためて愕然としました。
もうこれは、それぞれの性格の違いによるとしか、言えないような気がします。
そして、こんな超個人的な心情も晒す必要に迫られる、有名になるという事はある種、とても残酷な事だなぁと、大好きなお二人であるだけに、胸がつぶれるような思いがした2冊でした。

「大奥」完結
2004年から15年越しの連載が、ついに完結。

2004年と言えば、私がこのDNを始めた年だ・・・ということで過去を掘り起こしてみたところ、2005年の6月に、9月にコミックス1巻が発売されるのが楽しみ、と書いている。

この15年に、世の中の価値観は結構変わってきたのではないかと思うけど、15年前にこの「男女逆転」の「大奥」が始まったころ、その変化はまだまだ、ゆっくり転がりだしたぐらいな感じだったと思う。
ここ数年の方が、加速してきた感じがするのは、私の方がついていくスピードに遅れ始めてるってことかな、とも思ったりもするけど、なんにせよ、完結を迎えた今は、この漫画は「着眼点が面白いネ」とかの軽い見られ方ではなくて、ちゃんと時代のテーマとして受け止められるようになってるんじゃないかな。

この最終巻の中で、作者が西郷隆盛に言わせたセリフの数々というのは、今の日本の現実の根底にあるものが何かを強烈に示していると思う。

私は、この物語、女による徳川幕府、の終わりのところで、西郷隆盛があれだけの男尊女卑を当然のように語ることに、正直なところちょっと違和感があった。
というのも、物語世界の流れを考えれば、徳川幕府は女性によって維持されてきたことは確かなのであって、西郷の時代には原因となった疫病は克服されていたとはいえ、あそこまで歴史を否定するような考え方がどこで養われるのかな、と疑問に思ったのだ。
だけど、それに対する和宮の反応も含めて、作者はここの場面に「今」を反映させたかったのかな、その為の西郷さんのあのセリフだったのかなとも感じた。
全くの偶然だろうけども、森喜朗氏の顔なんかも浮かんじゃって、なんともタイムリーだなとすら感じてしまったというか。

一読者として、感慨深くこの最終巻を手にして、読了した。
ニノで映画化されたのは1巻のエピソードだったなぁ。あの映画は池袋に母と子どもたちと観に行ったなぁ。
久しぶりに読み返してみようかな。



新しい時代の

2021年2月16日 読書
芥川賞の「推し、燃ゆ」を読んだ。
いやー、なんか衝撃的。時代の最先端だなーと、これを選ぶ芥川賞も時代の最先端を行ってるなーと感嘆。

おそらくADHDと思われる女子高生が、「推し」活動だけを支えに必死に生きる日常。
推し活動においてだけは、誰にも何にも引け目を感じずに動ける。
私は「推し」という存在を持つ痛さみたいなのはわかるつもりだ。自分もかつてそうだった、「推し」がいることが生きる支えに、確かになっていたから。
ずっとついていくつもりでいても、「推し」には「推し」の都合があって、こっちの都合なんかに関係なく、状況は変わる。
主人公の周囲の大人たちは、主人公が病院で診断されるようななにかしらの生きづらさを抱えていることを知っていて、それぞれがそれなりにアプローチしている状況も読み取れるけど、そんな周囲の動きに関係なく本人の状況は変わっていく。
著者がそういうつもりで書いたかどうかはわからないけど、そういった「支えようとする側の人」と「される側の人」との、人同士思いのすれ違いというか、かみ合わない関係性とか、そんなものを感じた。
ラストに綴られる言葉はいろいろ辛いけど、未来のある終わり方だと感じる。
いつか自分なりの「幸せ」を感じることのできる大人になってくれたらと思った。

大河ドラマ「青天を衝け」
いやー、これも(笑)
「こんばんは、徳川家康です」、衝撃でしたわー。
番組サイトのインタビューを見る限り、今後も家康さんによる「歴史講座」(?)はある?
そして、お蚕さんが踊るというミュー風味。
ミュージカルもここまで来たか―という感慨がありましたねー。こちらも、今後も思いがけないところで何かが踊ったりするんだろうか?という期待が・・・

時代はどんどん進むなー。
マンガ「BEASTARS」
表紙絵から、ほのぼの系ではないなというのはわかっていたけど、「動物を擬人化した学園マンガ?面白そうじゃん!」というぐらいのノリで読み始めました。

「肉食獣と草食獣の共存」を描くこの漫画、軽い気持ちで読みながらも、しばしば湧き上がってくる問題意識や「セリフに赤線引いときたくなる」衝動と闘いながら読むことになりました。

肉食獣と草食獣の現実的な「捕食者対被食者」という構図はそのままに、そういう動物たちが、いろいろな決まり事(学校では規則、社会では法律)を定めた中で平和的に共存していこうとする世の中が描かれます。
人間は、人種の違いはあれど基本スペックはそれほどの大差はないわけですが、動物となると、「肉食・草食」だけでなく、体格や性質などが千差万別といえるくらいに違いがあるわけです。ゾウの何気ない一歩で踏みつぶされてしまうネズミ、とか、熊が軽くつかんだつもりでもヒツジの腕がもげちゃうとか、そういう「差」に溢れ囲まれて、そういう中で各々の自然体を尊重されて平和に暮らす社会はどういう社会か、というところからもう、考えさせられちゃうんですよね。やっぱり、「人間社会に置き換えると・・・」って考えるといきなり視野が広がって見えてくるものがあって。
この作者さんはそういう壮大なテーマを内心に掲げてこの、一見軽そうに見えるマンガを描いたのか、それともそういう「考えさせられる」という作用は、設定からの副産物であって作者の意図ではないのか、というあたりからすごく考えてしまいました。

主人公はハイイロオオカミのレゴシ、彼は純血種ではなくコモドオオトカゲの祖父を持つクォーターで、オオカミなのに白ウサギに恋をして草食動物フェチを自認しています。
レゴシは自分の恋心を原動力に、社会のいろいろな命題に「身体を張って」挑んでいきます。まあ少年漫画なので、主人公は闘ってばかりいて生傷の絶えない 男 オオカミです。
そして、別の側面から頭脳でアプローチしていくのがアカシカのルイという優等生で、このルイとレゴシとの関わりがメインストーリーですが、ルイ自身のストーリーもかなり面白いです。

22巻あって、つい先日その最終巻22巻が出たところなので、まだ感想としてはまとまっていないのだけど、とにかく動物の描き方というか描き分けというかが見事で、すごく面白かったし、世界観もすごく好きでした。

まあ、繰り返しになるけど、とにかくいちいち考えたくなっちゃって、「考えていいのか?考えないでもっと楽しんじゃっていいのか?作者はどっちを望んでいるんだろう?」とさらに考えてしまうマンガではありました。

これからゆっくりアニメを見て行こうと思っています。
凪良ゆう「流浪の月」★ひとつ
本屋大賞を取って絶賛されているので読んでみたんですけどね・・・

う~ん・・・・・

若い人には共感される作品なんだろうかね。

オバサンには、自分ではなんの努力もしないで、わかってくれない周りが悪いって言ってるだけの話に思えちゃったけど。

主人公の更紗は、子どもの頃にいろいろ辛い目に合ってるんですよね。
常識の規範を持たない両親に育てられちゃったことも、優しかったパパが早死にしちゃってママが恋人とどっか行っちゃったことも、引き取ってくれた叔母さんが優しくなかったことも、そこの息子に性的虐待を受けたことも、そりゃ、不幸なことだったと思う。

その後、更紗にとっては救いだった文(ふみ)との出会いも、世間では「幼女誘拐事件」の被害者(更紗)と加害者(文)にされちゃって、事実は180度違うのに、誰にもわかってもらえない。

口さがない世間も酷いし、無責任なマスコミも酷い、それは確かな事だけど。
でも、わかってもらおうとする努力というのも、必要なんじゃないのかなと思うんだけど。
更紗は、肝心な事はなんにも言わない。
「私は何にも悪くないのに、なんで私の方が努力しなきゃいけないの?」っていうようなものを感じるんだよね、この小説からは。
周りが気付けよ、みたいな傲慢さを感じるんだよね。

いや、言わなきゃわかんないことはいっぱいあるからね。
そこを想像して、人と対する時は常に、この人は心にどんな闇をもってるかもわからないから、って注意して対しましょうってことが言いたいのかな、この小説は。

最近は、人づきあいがホントに難しくなっちゃって、私も思った事を気軽に口に出せなくなっちゃってるけど。
だけど、こういう小説を読むと、まず自分を見せるってことが必要なんじゃないかって思う。
まず自分を知ってもらう事、その努力、をせずに、わかってくれない周りを責めるのは違うんじゃないって思う。

大人になって、亮くんという恋人ができて、結婚の話が出るんだけど。
更紗は、自分の本音はいっこも出さないで、本心をいっこも晒さないで、内心でいつも「この人はわかってない」とか「どうせわかってもらえない」とかブツブツ。
この亮くんも、実は心に傷を負っていてDVのケがある男だってことが後になってわかるんだけど、私にしたら、この亮くんの方がよっぽど努力してる。
更紗を大事にしよう、一緒に生きて行こうって本気で考えて、自分の過ちもわかってて、今度は失敗しないぞってすごく頑張っているように見える。

更紗は結局、文と暮らした感覚が忘れられないわけで。
そりゃそうだよね、どんなことも否定されず、むしろ肯定されて好きなように暮らせたら、そんな幸せな事はない。

結局最後は、更紗と文は再会して、男女という関係ではなくお互いに必要な存在として一緒に暮らしていくことになる。
作者はそういう二人をある意味、人としての理想を提示したつもりなのかもしれないけど。
でも、文という人には主体性がない。自分に自信を失っていて(謎の病を抱えている)更紗がしたいと思うことに追従するだけの人に見える。
お金があって、料理や身の回りのことはなんでもきちんとできて、こちらの希望はなんでも通してくれて、sexはしなくてよくて、なんて、そりゃ理想的だわ。

更紗がどう思おうと、世間には多くの人がそれを頼りに生活している「常識」っていうものがあって、文との関係なんて特に、世間から見たら非常識の最たるものになるわけだから、わかってもらいたいならわかってもらおうとしないとダメだと思うんだけど、その努力を放棄するのがこの小説の結末。
私たちは人とは違うのよね、それでいいのよねー、という、上から目線の自己満足。

私にはいっこも釈然としませんでした。
「生きたいように生きる」ことと、「自分勝手に生きる」ことは、絶対的に違うと思うんですよね。

文章は読みやすいです。
でもなんていうか・・・文学、とは違うような気がする。
最近良く感じることだけど、「読むマンガ」的な?

難解なのがいいとは思わないけど・・・うーん・・・・・


「生き物の死にざま」稲垣栄洋
「生き物の死にざま」というタイトルですが、読んでみるとそれは=「生きざま」であるのだな、と思います。
セミからゾウまで、種類を問わず29の生き物の生と死が紹介されています。

印象的なのが、多くの生き物について「繁殖行動を終えると死を迎えるようにプログラムされている」という一節。
おのずと、では繁殖行動を終えても死を迎えることのない人間は、どのように「プログラム」されているのだろう?という疑問が出てきますが、その答えは「ハダカデバネズミ」の項で語られます。
このハダカデバネズミという生き物は、「老化しない」生き物であり、すなわち「不老長寿」な生き物だそうですが、それに対して人間は細胞が老化するというプログラムを持っているということです。
生命が世代交代のために進化の過程で作り出してきたのが「老いて死ぬ」という仕組みであり、作者は“「老いて死ぬ」ことは、生物が望んでいることなのだ”と書いています。

そんなのを読むと、私という人間も、結局は遺伝子に操られているただの細胞の塊なんだなぁ、なんて不思議な気持ちになったりします。

29の生き物の中に、「ニワトリ」と「ネズミ」の項がありますが、「ニワトリ」は人間の食料になるために生まれて死ぬ「ブロイラー」について、「ネズミ」は人間の行う実験に使われている「ハツカネズミ」について、書かれています。
この2項を読むと、人間とはなんと業の深い生き物だろうかと思わずにはいられません。
その他の項目にもしばしば、人間の所業によって生物の元来のプログラムが阻害されていることが書かれていて、人間という生き物の存在意義を考えずにはいられません。
こんなにメイワクな生き物がなぜ、こんなにも繁殖できているんだろうか、と。

でも、そんな人間の生きざまも、本能のプログラミングの結果なのかもしれません。
とにかく、どの生き物も本能に従って必死にその生を全うしているのだということにしみじみと感銘を受けた1冊でした。

「宝島」真藤順丈
第9回山田風太郎賞、第160回直木賞受賞作。
2賞の受賞も納得の面白さ。すごい熱量を孕んだ作品で、読んでいる間ずっと、紙面から熱気が上がってくるような感じがしていました。

沖縄の戦後を、1970年のコザ暴動をクライマックスとして、本土復帰までを一区切りとして描いた小説です。
英語タイトルは「HERO’s ISLAND」
戦争によって足場を失くされた若者たちが、アメリカと日本のはざまで翻弄されながらも自分たちの沖縄を取り戻そうする闘いの物語。
一つの謎を巧みに転がして読者を引き付け、最後まで飽きさせません。

物語を絡めて沖縄の戦後が描かれます。
私は終戦後15年目に生まれていて、実際の戦争は知らなくても多少の余韻は知っている世代です。
戦争に子供時代を潰された世代である両親は、私たちに対する「反戦教育」も熱心でしたし、私自身「戦争でアメリカに取られた沖縄が日本に戻った」というニュースもリアルタイムで見聞きしていましたが、その沖縄の歴史、現実については全くと言っていいほど知らなかったんだなと、今のこの歳になって愕然とする思いでした。

物語には主人公と言える3人の若者が出てきます。
それぞれが、自分で考え、自分なりのやり方で、自分の郷(くに)である沖縄を取り戻すために行動します。
作者が意図したことかどうかはわかりませんが、今の日本に生きる日本人として、リンクする部分があるような気がしてなりませんでした。

誰と特定できない語り部の沖縄言葉が、物語の緊張をほどよく解いてくれて救われます。沖縄という風土の持つおおらかさかな、というのは短絡的すぎて失礼なのかもしれないけど、時に心地よく、時に切なく、効果的であったことは確かです。


「おかめ日和」入江喜和
女性向け漫画雑誌「BE・LOVE」に2005~2013にかけて連載されていたマンガで、コミックスは全17巻。
私は昨年、kindleの無料版から入って全巻読みましてドはまりし、、このお盆休み、ちょっといろいろお疲れ気味だったので懐かしくなり、再読しました。

あらすじ
旦那様は昭和の男前。腕の良い鍼灸の先生だけど、気難しくて超短気。のんびり屋のやすこさんは、いつも怒鳴られてばかり。しかし旦那様にベタぼれ故大きな体をくるくる動かし子供3人とおじいちゃんのお世話をしながら笑顔で働く。大変だけど、なぜかほのぼのと幸せな毎日!!(Wikipediaより)

と、これだけ読むとなんてことないマンガのようですが、実は結構な問題作というか・・・。
コミックス第1巻を読んで「おもしろ~い♪」となる人はまずいないのではないか・・・と思われます。
例えば、Amazonでの1巻の評価は☆2.7。そのうち、☆1つが46%。
で、私が「読書メーター」にあげた感想が
うわー、これ、私ダメ。ダンナもダメだけど、主人公も。いつもいつもおかあさんを求めてる子どもたちが不憫で、読んでて辛い。

だったんだけど、kindleで3巻まで無料だったので、とりあえず読んだんですよね。
そこからはもう、ずんずんハマって、11巻での感想が
第一印象が最悪だった人に恋しちゃうことって、結構あるあるだよね(1巻にひどい感想書いた言い訳(^o^;)) もうすっかり亀田ファミリーのファンです。ここまで、幼稚園のPTAあるある話、ダンナの生い立ち話、二人のなれそめと意外な過去、などなど盛りだくさん。子どもたちのキャラと成長も何気に丁寧に書き込まれていて、喜怒哀楽母性本能、全ての感情を刺激してくる、すごいマンガです。夜寝る前に読んで、終わってしまった自分の子育てを反省するのが最近の日課となってます。あと6巻で完結かと思うと辛い(ToT)

物語の主人公は、昔の「肝っ玉かあさん」を若くしたみたいなビジュアルで、およそマンガの主人公としては異色だし、その夫がまた、妻を罵倒するし手も上げる、自分ルールを通すことにおいては子供に対しても容赦ない、という男で、1巻でまずそういう日常を見せられて、今の時代、ひるまない人はいないと思うのです。

それでも、17巻も続いたわけですから、それだけの魅力があるわけで。

亀田ファミリーの日常に加えて、周辺人物たちの魅力もあるし、ふたりのなれそめから結婚までのドラマもあるし、丁寧に描かれていく子供たちの成長もある。
そのどれもが、ある意味リアルなんです。
自分のまわりにもあるある、という意味のリアルではなく、こういう世界が現実にあっても全然不思議じゃない、という意味で。
また、夫婦の関係なんておよそこんな感じの「割れ鍋に綴じ蓋」的なのが実は理想だったりするんじゃない?という意味で。

あとね、重複になるかもしれないけど、子どもたちの描き方がもう、絶妙で!
私は基本的に小さい子供は好きじゃない方なので、初読みの時には甘ったれな子どもたちと、絶対に叱らずたしなめることすらしないお母さんと、逆に子どもに対しても自分憲法を押し付ける父親の全方位に対してイライラしたのだけど、読んでいくうちにどんどん我が子のような感覚になっていって、今回の再読では最初から微笑ましく癒されました。

未婚の若い人に対して「結婚なんてこんなものよ~」と言うにはちょっと刺激が強すぎるかもしれないけど、でも、結婚して子どもを持って家庭を営んで生活していくっていうのは大体こんな感じのバリエーションのような気がするのです。

また疲れた時に読み返して癒されよう。
入江先生、単発でいいからその後の亀田家を描いてくれないかなー。
時間(とき)の花束 Bouquet du temps [幸せな出逢いに包まれて]/三浦百恵
三浦百恵さんのキルト作品集です。

え?三浦百恵ってダレって?

って感じでしょうかね~、今は(;^_^A

型破りのすごいアイドルだったんだよ~、とアラサーの子供たちに話しながらページをめくり始めすぐに、眼鏡をかなぐり捨てて、裸眼で食い入るように一つひとつに見入り、読みふけってしまいました。

キルトを作る目的の一つが、ご自宅のリビングの壁にかけるため、なので、大判のタペストリーをいくつも作っていらっしゃるのですが、その一つ一つが複雑で緻密で色遣いが絶妙で、才能のある人がやったら「たまたま、何気なく始めた」ところから、こんな高みにまで行けるんだ~、と呆然としてしまいました。

そして、一点一点にまつわる制作時のコメントは、家で家族を想いながら、帰りを待ちながら、あるいは親しい人たちを想いながら一針一針を進めた、“その時の百恵さん”が息づいていて、ああ、幸せな人生を送って来られたんだなと、こちらもとても満たされた気持ちになりました。

初めてパッチワークというものに触れた時の雑誌と、自分で作った作品、自分でデザインを起こしたときの下書きや図面、なども豊富に載せられていて、興味深いです。なんとなく、まだ私たちが知っている面影の百恵さんが、「これ、キレイ、面白い!」って思って夢中になっていく様が目に浮かぶような気もしてしまうのです。

夫の友和さんに送りたい一心で見様見真似で設計し、先生の指導を受けながら作り上げた綿入れ半纏(デザインと布の色遣いのセンスがすごい)。
息子さん一人一人の個性を想いながら縫ったベッドカバー(息子さんの安心感が伝わってくるような)。
そんなご家族の姿もちらりちらりと見せてくれながら、素晴らしい作品が次から次へと現れます。

そして、パッチワークキルトというものが単に布切れを縫い合わせるだけのものじゃないということを思い知らされました。
たくさんの◆□▼を組み合わせて1枚の絵に仕立て上げるなんて、それをゼロから作り上げるなんて、私には絶対ムリ!百恵さんは、実はリケジョだと思います!

これで2000円(税抜き)は超サービス価格です!
収益は東日本大震災などの災害支援に回したいとのことで、たくさんの方に買ってもらえるようにという思いがあったのでしょうか。

ふっくらにこにこ、ふつーのカワイイおばさんになった百恵さんにも会えます。
当時「山口百恵は菩薩である」なんていう本も出たりしましたが、あながち間違っていなかったんじゃないかと思ってしまうような、「昭和の女の理想」を見たような気がしました。

でも、とにかく、まずは三浦百恵さんが誰だったか、ということは置いといて、この作品たちの素晴らしさを堪能したいし、してほしい、と思う一冊です。
「フレディ・マーキュリーと私」
今や知らない人はいない状態となったQueenのフレディ・マーキュリー。
その恋人ジム・ハットンによる手記。

警戒心や猜疑心や孤独と常に隣り合わせで、本当に信頼できると判断したごく少数の人たちと送る日常。
派手なパーティーでどんちゃん騒ぎをし、コカインで精神の安定を保つ。
世界のスーパースターなんて、やっぱり正気ではやっていけない商売だよなぁ・・・。
でもフレディ・マーキュリーはそんな役割を引き受けて、自分の心身をすり減らしても素晴らしい音楽を生み出し続けた人で、鶴の恩返しの鶴のようだなと思った。

そんなフレディの最期の7年を支え続けたジム・ハットン。

だけど、スーパースターの恋人、という役割もまた、非常に精神力のいる立場だと思う。
最初は、フレディとは関係ないところで自分の職業を持ち、フレディの自宅であるガーデン・ロッジに通っていたが、のちにガーデン・ロッジの庭師としてフレディに雇われる形で同居する。
ガーデン・ロッジには、他にもマネージャーや付き人や料理人や運転手といったスタッフがおり、その中で庭師兼“恋人”という立場は難しいものだったと思う。
恋人のフレディが毎日昼まで寝ていても、自分は朝から庭師として庭に出て仕事をする。
月給600ポンドは、当時としたらそれほど高給というわけではなかったようで、それ以上の“臨時ボーナス”や“出資”については、極力甘えまいというジムの矜持が端々に感じられる。
そんなジムを支えたのも、「フレディに愛されている」という思いであった。Queenのライブの時にはステージ袖からではなく、客席で観客に混ざった中からステージ上のフレディを見て「あれが僕の恋人なんだ」と心に思う。その思いこそがジムを支えていたのだろう。

「愛し合う二人」という以上に「支え合う二人」と言うべき強い心の繋がりが感じられた。

フレディの元婚約者のメアリー・オースティンは、婚約者の役割を終えた後は個人事務所を任されていた人だった。
ジムの手記からですら、フレディが誰よりも一番に信頼していたらしいことは感じられる。

フレディの死後の遺産整理の過程で、フレディからは「ここは二人の家だから、自分の死後も住んでほしい」と言われていたガーデン・ロッジから出されたことについて、ジムは遺産整理の一切を取り仕切ったメアリーに対しては随分わだかまりが残ったようだった。
それをそのまま書いているのも、ジムの人の良さの一面だと思う。
フレディ・マーキュリーほどの人の実際の遺産整理となれば、いろいろ難しいこともあったのではないかと思われるので、遺言書にも残されていなかったのであればそんな「恋人同士の口約束」などは、履行のしようもなかったのではないかと、そこは恨みがましく書かれたメアリーに同情する。

フレディの最期の瞬間が書かれていたことには少し驚いた。
日本人と外国人との死生観の違いのようなものも少し感じた。

とにかく、生身のフレディのスーパースター人生の過酷さと、その恋人に選ばれてしまい先立たれてしまった人のやり場のない切なさというのがヒシヒシと感じられてしまって、胸の痛くなる1冊だった。


レプリカたちの夜
いろんな意味で不思議な小説です。

最初に感じた違和感は、内容もさることながら、「平仮名が多いな・・・」ということ。
「つかれてるみたいですね。昨日もおそかったんですか」とか、「かれらの顔もおもいだせない」とか、「粒山はあたりまえらしくこたえた。つまり、それだけばかげたことだといいたいらしい」とか、単語としても「はたらいている」とか「うごく、うごいている」とかが平仮名で、しばらくは「どういう基準で使い分けてるんだろう」ということが気になって仕方なかったんですが、読み進むうちに話の展開の方がよほどややこしくなって行って、表記の事は気にならなくなりました。

舞台は「動物レプリカ工場」です。

動物レプリカ工場・・・???(^_^;)

登場人物の名前も、往本、粒山、馬鯛など、わざわざ「おうもと」「つぶやま」「またい」とルビがふられているので、作者がきちんと意図して設定した苗字なんだなと思うのですが・・・そう思うと逆に謎。

ただ、その「動物レプリカ工場」で「主人公の往本が本物と思しきシロクマを目撃する」という導入部は妙に整合性があって、話にはすんなりと引き込まれます。それがまた、なんだかちょっとぞっとする感じでもありますが。

動物たちが、絶滅したとかしてないとかの会話があったりして、ある種の現代を超えた世界の物語なんだな、ということはわかるけど、それについても特に言及はされず、それが当たり前の前提で進む物語です。

新潮ミステリー大賞を受賞した小説ですが、ミステリーと言えるかどうかは微妙です。
私が唯一、ミステリー的な不気味を感じたのがシロクマで、読み終わってみれば何かのフェイクだったんだろうなとは思うのですが、まだはっきりは掴めません。
読み始めてしばらくは、椎名誠作品に似たSFを強く感じたし、読み進むうちに思ったのは、「これは、読むデビッド・リンチだな」ということ。
なので、「最後には謎が解明されてスッキリ」的ミステリーが好きな人が「ミステリー大賞」に惹かれて読んだらひどい目に遭うかもしれません。

でもね、登場人物がいろんなことを語っているのが、理屈っぽいようで結構わかりやすく、作者が書きたかったことはわかるような気がしました。

なんせ、個人的にはものすごく好きな世界観の小説です。
これが処女作とか。
二作目「ざんねんなスパイ」をさっそく書店に探しに行きます。





本「こんな夜更けにバナナかよ」
映画って、壮大なあらすじになっている場合も多いし、濃縮されたエッセンスになっている場合もあるけどそうだとしても、何が濃縮されてるのかなーと思うと、ちょっと気軽に観に行く気にはなれなくて。
でも、「障がい者と健常者の関わり合い」という点においてはどうしても興味があったので、原作本を読みました。

【目次】
プロローグ 今夜もシカノは眠れない
第一章   ワガママなのも私の生き方-この家は確かに「戦場」だった-
第二章   介助する学生たち-ボランティアには何があるのか①-
第三章   私の障害、私の利害-「自立生活」と「障がい者運動」-
第四章   鎖につながれた犬じゃない-呼吸器をつけた自立生活への挑戦-
第五章   人工呼吸器はわれなり-筋ジス医療と人工呼吸療法の最前線-
第六章   介助する女性たち-ボランティアには何があるのか②-
第七章   夜明け前の介助 人が人と生きることの喜びと悲しみ
エピローグ 燃え尽きたあとに残るもの
あとがき
文庫版あとがき
主要参考文献


著作者の渡辺氏はすごく考えながら悩みながらこの本を書いていて、それが自分の日ごろのモヤモヤとリンクして、答えにたどり着けるのだろうかという思いで貪るように読みました。

最終ページが近づくに従って自分の中で形になってきたのは、結局は人と人との関わり合いの問題であって、障がいの有る無しは関係ないなという思いで。

鹿野さんは自分ではできないことがいっぱいあって、人にやってもらえばできるならやってもらえばいいんだって割り切って、自立生活に踏み切ったのだと思うのです。そこに葛藤がなかったとは思わない。筋ジスと診断された小6の時から、養護学校や施設での生活や障がい者運動などを通じての経験からの考えや思いがあっただろうし、根っからの性格で「ワガママ」だったわけではなくて、それが健常者には「ワガママ」と解釈されることは覚悟の上で決めたことなんだろうなと。
彼を介助した人々はボランティアなので、嫌なら来なくてもいい人たちなわけです。でも、来る。そこには健常者側の考えや思いや覚悟があるわけで。
じゃあ、そういうのって、障がい者と健常者だから生じるものなのかっていうと、全然関係ないなと思う。
相手を理解して受け入れて付き合うってことは人間関係の基本だし、しんどかったら離脱する自由だってあるわけで、そういう意味で、自分の意志でシカノ邸にくるボランティアたち、気に入らなければ「お前、もう来なくていい!」とボランティアを拒否する鹿野さん、そしてそう言われてホントに来なくなるボラもいればそう言われても来続けるボラもいて、そういう人までは拒まない鹿野さん、という関係はすごくフラットなもので、ダイヤの原石のような状態であっても一つの理想形と言えるんじゃないかと思いました。

本では、ボランティアに頼る鹿野さんの、そしてボランティアに来る人たちの気持ちや考えを丹念に聞き取っています。
読む人はおそらく無意識に自分との接点を探しながら読むことになるのではないかな。自分だったらどう思うか、どう感じるか、どうするか・・・。それは、自分がボランティアに参加したとしたら、というのももちろんだけど、おそらく、自分が鹿野さんの側だったら、ということも考えると思うのです。
そういうことを自ずと考えさせてしまうのも、この本の意味のある所ではないでしょうか。

現実にはなかなか難しいからこその「理想」とも言えるけど、少なくとも、自分を隠さない、弱みがあってもそれを知られることを恥じない、そういう「自分を見せる、知ってもらう」ことを恐れないことだなと。
そういうのって、欧米人は結構できてるような感じがするし、逆に日本人は特に苦手だっていうのは、どういう文化的背景があるんだろうか・・・などとも思ったりして。

作者の渡辺さんがしめくくりに「自分がたどり着いたメッセージ」として記したことは、私も深く納得したことでしたが、この本を読んだ人それぞれの感じ方、考え方というのもあると思います。
だけど、障がい者、と、社会においては「便宜的に」分類されてしまうわけだけど、みんな一人ひとり、その状態が自分の「常態」=ノーマル、として「今を生きている」のだ、ということは、知っておいてほしいことだなと思います。
あなたにも、苦手な事、あるよね?あなたにも、出来ないこと、あるよね?そういうことと一緒なんだと。
そして、自分一人でできないことには他人の助けを借りていい、それもまた社会の「常態」であるべきだと思うのです。

三浦しをん「ののはな通信」(少しネタバレ)
野々原茜と牧田はな、2人の女性の高校時代から20数年にわたる往復書簡。
可愛らしいタイトルとメルヘンチックな装丁をすっぱりと裏切るすごい小説でした。

出だしは交換日記風。授業中にこっそり行きかうメモ。女の子にはけっこう「あるある」な感じ、なんだけど、こっぱずかしい。いや、自分もやってたけどさ・・・

そこから2人はレズビアンな関係になり、破局し、一旦は距離が開くけれどまた手紙が再開し、そのやりとりはいつしかメールになって、と時代は進んでいく。
その長い時間をお互いをさらけ出して生きていく二人の物語。

肉体関係が入ってしまうと、自分には一気にハードルが上がってしまうのだけど、そんなことは、歩く途中でちょっとつまずいただけ、みたいな感じで通り過ぎて、精神的な繋がりをどんどん強くしていく二人を、うらやましいような気持ちで読み進めていきました。

自分で「恋愛」を意識したことはないけど、子供の頃から大学までのその時その時「大好きな同性の友達」というのはいて、その子にとって自分は一番ではなさそうだな、と寂しく思ったり、当時はすごく親しいつもりでいたけど、本当のところ相手はどう思っていたのかな、と今になって思うこともあったり、久しぶりの集まりにその人が来てなかったりすると残念だったり、ということはありました。
だから、そういう「大好きな友達」とここまで関係を繋げて、強めて、高めていけるのは、男女の恋愛を成就させることよりもずっと幸せなことのように思えます。

そういう意味で、しをんさんは、人にとっての「恋愛」というものを書きたかったのかもしれません。
BLで書くこともできただろうけど、BLで書かれていたらもっと客観的に楽しんで読んでしまって、自分の実感としては理解できなかったかもしれないと思います。

往復書簡という形式はちょっと苦手かなと思ったけど全く抵抗なく、ぐいぐい読ませてくれました。
三浦しをん、どんだけ引き出しがあるねん、と思った1冊でした。
森見登美彦「熱帯」
「この本を最後まで読んだ人はいない」と言われる小説「熱帯」を巡る物語。
エッセイとも物語ともつかない書き出しからして、翻弄される感じ。
「ふむふむ。」と思いながら読み進めていくうちにふと、「あれ?」「ここはどこ?」みたいな感じに囚われて、どこからこっちに進んできたのか?とページを戻る事度々。
ストーリーが頭に入って来ないとか、人物関係が複雑とかの読書によくある「ページ戻り」ではなくて、ちゃんとわかって読んでいるのに、「なぜ今ここに?」いうキツネにつままれた感というか。

後半、物語がどんどん「入れ子」状態になってループしていきます。
通勤の電車内で読み進んでいて、降りるギリギリまで読んでいてしおりをちゃんと挟めなかったことがあったのだけど、あとから「どこまで読んだっけ」とページを繰ったら、どこだか全然わからなくなったことがありました。

この小説自体が「熱帯」というタイトルの小説です。
それは確かに1冊の本として私の手にある。
でも、その中に「熱帯」という小説が入っているのです。
「熱帯」という本の中で「熱帯」という小説がぐるぐるしているのです。
なんでまたここにいるのか?いったいこの物語は先に進んでいるのか?
そんな不安に囚われて、読んでいる最中も何度もページを戻って確かめたくなるし、読み終わると、この結末はどこに繋がるのだろうとまた最初から読み返したくなる。

最後の方に、こんな1文が出てきます。
「おまえはどこへ戻ってきたのだ?」

ゾクッとしました
これは、昨年、25年ぶりに3rd Seasonが放送されたDavid Lynchiの「ツインピークスリターンズ」の最終回での、クーパー捜査官の心の叫びと同じです。
この小説のこの、何一つ確信が持てない不安感は、リンチワールドに似ているのです。

出版社によるこの本の内容紹介文は、「我ながら呆れるような怪作である――森見登美彦」と結ばれています。
読む前は、「自分でそんなこと言ってしまっていいんですか、先生?」と思ったのでしたが、いやいや、まったくその通りでした!

「花だより」みをつくし料理帖 特別巻
みをつくし料理帖、ほんまもんの完結編。

なんと素晴らしい世界観。

みんながお互いの事を考えて生きることは、すなわち自分に返ってくるのだよ。

そこの未熟者たち、これを読んで人の心を学べ(まだ引きずってる)

私は学んだよ。実践できるかが問題だけども。
押しつけがましくなく、説教がましくなく、わかりやすく優しく、大事なことに気付かせてくれるシリーズだった。
ついでに、料理の楽しさ、面白さにも。

作家さん、私と一つ違い。
精神的レベルが違いすぎて、恥ずかしくなっちゃう。

寂しいけど、いつまでも続かせない方が作品として良い形で残ると思うから、この辺で幕、ということでいいんだよね。

あとは、NHKが続編か完結編としてこれもドラマ化してほしい~。


森見登美彦「太陽と乙女」
奈良の星、森見登美彦センセイの、デビューから14年間分の90篇が収められたエッセイ集。

1.登美彦氏、読書する
2.登美彦氏、お気に入りを語る
3.登美彦氏、自著とその周辺
4.登美彦氏、ぶらぶらする
5.登美彦氏の日常
6.特別書下ろし「森見登美彦日記」を読む
7.空転小説家

という7章から成っており、小説家・森見登美彦氏のルーツや、今までの足跡や、お人柄やお好きな事、常日頃どんなことをお考えあそばされているのか、はたまた、あんな小説こんな小説がいかにして書かれたか、などなど森見センセイについて知りたいことがギュッと詰まった、ファンにとっては宝箱のような1冊です。

京都大学農学部のご出身ということで、まさか小学生の頃から「将来は小説家になる!」と心に決めていらしたとは、意外でした。
そして、その「小説家修行」の為に、中学1年の時から「必ず大学ノート1ページは埋める」というノルマを自らに課して日記を書きはじめ、それが7年以上も続いたという生真面目さは、文章がいかにオモロくても、ちょっと脱力した感じでも、その文章の中からそこはかとなく漂ってくる森見センセイの真のお姿そのものなのです。

私はこのソフトカバー本を、お気に入りの包装紙で作ったブックカバーを被せて、毎日の通勤の行き帰りにニヤケながら読んでいたのですが、特にコーフンしたのは「4.登美彦氏、ぶらぶらする」の中の「ならのほそ道」です。
私自身が常日頃から「奈良はいいところだなぁ~」と思っているその思いに共感してくれるような、あるいは代弁してくれるような文章が続いていて、喜びに打ち震えてしまいました。
この段では、奈良だけでなく、一時期お住まいだった東京についても書かれているし、森見センセイの多くの小説で舞台となっている京都についても全編にわたって触れられているし、自分の好きな土地について語られるのがこんなにも心地よいものだとは思ってもいませんでした。

そう言うことばかりでなく、この方はデビュー後、勢いのままにお仕事を引き受けすぎてパンクする、という経験をされて、それを乗り越えての今、という段階にいらっしゃいます。
その経験を大げさに小説やエッセイのネタにするようなことは決してないのですが、ご自分を語るのにそこを避けては通れない、ということで隠し立てするようなこともなく、そういう修羅場を抜けた今の自分、という立場でのお話もいろいろ語ってくださっていて、自分自身にとってすごく励みにもなったりするのです。

内田百閒がお好きとのことで、私も読んでみたいです。
また、森見センセイの著作も、特にデビュー作の「太陽の塔」なんかはかなり前に読んで、ほぼ忘れかけているので、再読したいと思いました。

マーカーで線を引いておきたいところがたくさんありました。
「難しすぎず、面白いという程でもなく、役に立つわけでもないが虚しくなるほど無益でもない、どこから読んでもいいし、読みたいものだけ読めばいい、そんな『寝る前に読むべき本』を目指した」(要約)とおっしゃっている通り、枕元において寝付けない夜などにちょっと開いて読んで、ちょっとだけ幸せな気持ちで眠りに入る、そんな存在になりそうです。

「あの家に暮らす四人の女」三浦しをん
鶴代、佐知、雪乃、多恵美、という4人の女性の日常が描かれる、谷崎潤一郎「細雪」のオマージュと言われる小説。
とはいっても、そこはしっかり「しをん節」が貫かれている。

波乱万丈な物語ではないのに、笑ったりときめいたりびっくりしたりドキドキしたりハラハラしたり、と、感情をとても刺激してくれる小説。
語りの視点が移ろうんだけど、この世の人ではなくなった父の視点で締めくくられることで、主人公たちだけでなく広く「人の営み」を俯瞰する視点に導かれて、いろんな物事に対する愛しさみたいなもので胸がいっぱいになった。

というのが読了直後の感想だったんだけど、ちょっと冷静になってから思ったのは、「こういう暮らしって、なんか、女性にとっての理想じゃない?」
気の合う女同士で暮らしていて、何かあると「奥様、お嬢様」とはせ参じてくれる男が近くに暮らしていて、生身で存在していたらいろいろとメンドクサイ「夫もしくは父親」は空の上から見守っていてくれている。

しをんさん、こんな小説、書いちゃってよかったの?(^_^;)
・・・と思ったけど、織田作之助賞受賞してるんだからいいのか。

「ぼぎわんが、来る」澤村伊智
※ちょっとネタバレあります。

久しぶりの、角川ホラー文庫。
「ホラー小説大賞受賞」で「映画化」ということで、読んでみようかと思いました。

「昔からの言い伝え」っていうのが元にあって、それが現実になる的な話。雰囲気としては、今市子さんのマンガの「百鬼夜行抄」と似てます。
導入部の、第一部の主人公の子供の頃の記憶とか、なかなかに背筋が寒くなるものでした。
3部構成なんだけど、1部ごとに主人公が変わります。変わってしまうのです。コワイ。

「ぼぎわん」というコワイものが出てくる話なのですが、これがどういうものなのか、ということが、話の流れの中で説明されてはいるのだけど、もひとつストンと理解はできず。
最後、大バトルになって退治されたはず、なのに、あの「寝言」。
ぞっとさせて終わり、という、ホラーの王道を行くラストでした。

きっと、すごく怖くて楽しめる作品なんだと思います。
私は多分、歳のせいで感受性が鈍ってきてるんだと思う。
随所で「あー、これ、怖いよねー」とは思うものの、リアルな恐怖は味わえず。
寂しいことです。
ただ、ひとつだけ好き嫌いを言わせてもらうと、あの大バトルはどうなのかなーと。
多分作者は、ビジュアルイメージが頭の中にはっきりあって、それを読者に伝えたいんですね。その思いはひしひしと伝わってくるのだけど、その思いが強すぎてちょっと言葉数が多くなりすぎた感があって、読んでいる方としては書かれている状況を思い描くのに必死で、怖がっている余裕がなかった、という感じでもありました。

映画化はちょっと興味あるんだけど、第三部をそのまま映像化するとなるとちょっとグロそうなので、どうしようかな~、と迷います。


清原和博「告白」
33年前のドラフトで涙を流した清原くんをずっと応援していました。
野球に興味がなかった私ですが、彼が西武ライオンズ時代は私も野球を楽しませてもらいました。
「何が何でも」という執念を感じたFAでの巨人入団、「泥水をすする覚悟で」と言っての契約更新、世間ではいろいろ言われていたけど、いつもいつも「ガンバレ」と思って見ていました。
そしてついに「覚せい剤で逮捕」。
どうしてここまで堕ちてしまったのだろう・・・と思っていました。
それでも、今でも、更生してほしい、と願っています。遠くからですがずっと見て来た清原くんが、巨人に移って以降、本当に幸せそうに見えたことがないから。
どこかで、本当の心の安らぎ、幸せを感じる時を迎えて欲しいと、プロデビューから応援してきた私は思うのです。

この本は、インタビューで語られたものが収められています。
だから限りなく主観的なものです。
そして、だからこそ見えてくるものがあります。
それは、氏は「人間的な成長」というものが上手くいかなかった人なんだな、ということです。
33年前のドラフトから始まるいくつかの挫折を、ひとつも咀嚼、克服、できていないように感じました。
いろいろな失敗も全て「あの時はあれでよかった、必要な事だった」と自己肯定していて、反省して次に生かす、ということができていないように感じました。
全体を通してとてもとても不思議で残念だったのが、あれだけの選手だったというのにそれが自信にも誇りにもなっていないということです。
自分に自信が持てていないから、後悔することが怖くて仕方ないのだろうなと感じました。

ピアスや刺青に価値観を持っていることは、逮捕前に目にしていた「清原和博」の佇まいと考え合わせても「その筋」方面との付き合いが深かったことが想像されます。
なぜ、と思う時、常に自信の持てない心を気持ちよく持ち上げてくれた人たちなんだろうな、と容易に想像がつきます。
彼ほどの選手に、ブレーンがいなかったはずはありません。おそらく、彼を思っての耳の痛い忠告や意見を、彼自身が受け付けなかったんだろうなと思います。

それはなぜだったんだろうか。
もともとそういう弱い人間性の人だったのか。
だとしたら、こうなることは避けられなかったということなんだろうか。
なにがどうなったら、彼は「成功」できたんだろうか。

それをずっと考えています。

ひとつだけ、これはどうなんだ、と思ったのは、PL学園の野球部のことです。
寮に入ったら、1年生は寮から外へ出ることはもちろん、家に電話することも許されない。
上級生の「付き人」となって、炊事洗濯の世話をしなければならず、練習でへとへとになって帰ってきてもそれが終わらないと寝ることができない。
お風呂も、湯船に入ることはもちろん、シャンプーもバスタオルも禁止。
同級生同士、辛い境遇を励まし合うどころか洗濯機の取り合いなどで喧嘩になるような空気。
もともとの性分が強くなかった氏には、ことのほか辛かっただろうし、そこを支えたのが「野球なら一番」という部分だったとしたら、それだけが自分の拠り所になってしまい、プロになってみたら自分よりすごい人なんてたくさんいる、というところで既に折れてしまっていたのかもしれないと思いました。
プロの世界は、それを見取って丁寧に育てるような、そんな甘いところではないんでしょう。自分で成長できなければ負け、という世界なんだろうなと思いました。

依存症の治療には真摯に取り組んでいるようです。でも、そこに堕ちてしまった自分を客観的に見つめ直し、「自分の何が良くなかったのか」と向き合うところまではまだ行けていないように感じました。
更生の道はまだまだ長いと感じました。
身近で支援してくれている人もいるようなので、今は辛いとは思いますが、踏ん張って、いつか晴れやかな笑顔を見せて欲しいです。

「さざなみのよる」木皿泉
読んでいて、そして読み終わって、とても大きな安心感に包まれる感じ、これはなんなんだろうね。

なんていうか「安心して死ねる」感っていうか。

あー、生まれて、生きて、それだけでよかったんだー、なんにも考えずに死んでいいんだー、みたいな。

それはなにか、充実した1日の終わりに「あー、疲れたー」ってベッドで目を閉じる時の快感に似てたりもして。

とにかく、すごく不思議な感覚に包まれて読んだ1冊でした。

昨年、一昨年にNHKのお正月ドラマだった「富士ファミリー」ワールドの小説です。
第一話でドラマでは幽霊だったナスミ(演:小泉今日子)の死が描かれ、それがこの小説の扉になっているというか。
(とある「しかけ」があって、「さざなみのよる」というタイトルも「そういうことかぁ~」ってわかるようになってます)
そこから「始まる」というようなストーリーがあるわけではなく、ナスミの死から派生する「さざなみ」が描かれている小説です。

木皿泉さんの言葉遣いって、なんというかすごくフラットだなと感じます。
例えば、ナスミを看取った夫の日出夫が、とある理由から、今亡くなったところのナスミに対して「めんぼくない気持ちになった」っていう表現があって、それがすごく印象的で好きなんですが。
「めんぼくない」って、あんまり死者に対して使う言葉じゃないという感じがするんですよね。人ってそんな風に「死」に対してはなんか自動的に線を引いてしまう感覚があると思うんだけど、この作家さんにはそういことがなくて、それがかえって、普通なら読み流してしまうようなところで「はっ」と思わせられたりするんです。
前作の「昨夜のカレー、明日のパン」でもそうだったけど、生と死の境目というのがすごく曖昧で、だからなのか、「命は数珠繋ぎ」ということを読んでいてすごく感じて、それが安心感につながるのかなと思ったりします。

それは、実質的に子供を作るとか産むとかいうことではなくて、人は人と関わることで繋がっていくんだなっていう感覚で、それは同じ生きとし生けるものであっても、動物と人間の違うところ、人間ならではの部分なんだなと感じます。

個人主義に拍車がかかっていってる今の時代だからこそ、それを感じるのかもしれないし、作家さん自身、奥底に危機感を持っているのかもしれないとも思ったり。

ですが、そういうところまではあまり考えず、無心で身を委ねたい木皿ワールドです。






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